2018年10月4日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。
弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

──マルコ福音書9章30-37節

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三年ほど前に直木賞を受賞した小説に、朝井リョウの『何者』という作品があります。
就職活動にいそしむ大学生たちを描いた作品です。登場人物たちは皆「自分はもっとできるはず」「自分は特別な人間のはずだ」ともがきながら就職活動をするものの、何者にもなれない凡人の自分しか見つからない、そのような現実を描き出した小説でした。
思い返せばわたしたちの誰もが、心のどこかで、誰でもない何者かになりたい、という願いを持っているのではないでしょうか。

弟子たちもまた、イエス様を理解できない恐れの中で、それでもイエス様の弟子であるというプライドを保つために、弟子としてのふさわしさ、偉さを競い合っています。
だからこそキリストは、子どもを弟子たちの真ん中に立たせ、このように偉いわけではない、能力のない子どもを受け入れることこそ、キリストを、神様を受け入れる者なのだと語っていかれたのです。

ここで立たされた子どもは、弟子たち自身であります。そして何者かになりたいともがく、私たち自身でもあるのだと思います。
神の前においては誰が偉いか、ということは何の意味も持たないのだということ、弟子たち自身が、私たち自身が弱い自分を受け入れることこそ、十字架の救いを受け入れることなのだということを、キリストはここで伝えたかったのです。

キリストの言葉は、このときの弟子たちには届きませんでした。けれどもその先において、十字架を前にして、弟子たちが頑なに守ってきたプライドを打ち壊されていきました。その弱さの中で、キリストは再び弟子たちの手を取り、もう一度、一緒に行こうと言ってくださった。それが、十字架の先にある復活の出来事であったのだと思います。復活のキリストに出会って初めて、弟子たちは弱い自分、ありのままの自分を受け止めることが出来たのです。

私たちはいったい何者でしょうか。
他の人と比べて何かができると自負しているでしょうか。
キリストは十字架を通して、そんな私たちに語ってくださっています。
あなたが何者でもなくたっていいんだと。
いつでも立派でなくたっていい、弱くたっていいんだと。
そんなありのままのあなたでいてほしいから、わたしは十字架の道を歩んだのだとキリストは語ってくださっているのではないでしょうか。

『キリスト者の自由』のなかで、キリスト者の救いとは、キリストが自分の中に生きておられることによって与えられる自由であるのだと、ルターは語っています。
それは弱さを持つ私たちがありのまま、神様に受け止められることによって与えられる自由であります。その上でルターはこのように言うのです。
「わたしもまた隣人のためのキリストとなろう」と。
これこそが、先んじてキリストが語ってくださっていた、「すべての人に仕える者になりなさい」ということばの意味であるのだと思います。

十字架という弱さと不自由さの極みの中に、キリストは力と自由を示されました。救いと導きとを示されました。
いつだってキリストは私たちの常識を根底から覆してくださる方であります。その逆転のキリストこそ、私たちの救い主、メシアなのです。
そのキリストが歩まれた十字架の道を、私たちもまた、私たち一人ひとりの中に生きるキリストと共に、一歩ずつ踏み出していきたいと思います。