2018年10月31日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。

──ヨハネ福音書2章13-22節

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1.あなたの熱意がわたしを食い尽くす


当時、エルサレム神殿において礼拝をするために遠くからやってきた人々にとって、神殿の境内で牛や羊を売る人々や両替人たちの働きは欠かせませんでした。神様への捧げものである牛や羊を引き連れて遠くからやってくるわけにはいきませんし、購入のためのお金も国のものに両替する必要があったからです。
つまりキリストが鞭をもって追い出した彼らは、何も違法なことをしていたわけではなく、人々の求めに対して答える形でその働きをしていたのです。
彼らはきっと、遠くから来た人々も共に礼拝を与れるようにとその働きを始めたのかもしれません。しかしキリストが言うように、いつしか神様のみ心に反する「商売」へと変わってしまっていたのだと思います。

2.罪が福音を歪める


宗教改革者マルティン・ルターが生きた時代のカトリック教会の様相もまた、そうであったのではないかと思います。
宗教改革の時代におけるカトリックもまた、神への熱意のゆえに、荘厳な礼拝や建物を整えようとし、その資金調達のために、人々の救いであった煉獄での苦しみを解放するものであるとして、免罪符を販売するに至った面もあるのではないかと思います。
そこには、私たちがどんなに信仰深くあろうと、神様に正しくあろうと願っていたとしても、いつのまにか神様の御心から離れてしまう私たちがいることを、キリストも、ルターもよくわかっていたのだと思います。
そしてそれこそが、私たちが持つ罪というものなのです。

3.より良いものを求めて


ルターが福音の回復のために礼拝の中で行ったことは、聖書の母国語への翻訳と、礼拝式文の制定でした。
しかし礼拝式文について、自分の制定したものよりも「より良いもの」が他の人によって作られたのなら、それを排除しないとルターは言っています。それゆえ今なおルーテル教会の礼拝式文も改定が続けられています。
それでは、その「より良いもの」であるという判断はどのようにすればよいのでしょうか?

現在の私たちが使うルーテル教会の式文の冒頭にあるような罪の告白と赦しの宣言は、ルターの式文には含まれていませんでした。
なぜならルターの時代における告解室で告白される罪は、自らの行いによって償われるものとされていたからです。そのように理解されていたからこそ、罪の告白と赦しを、式文から取り除いたのではないかと思います。罪の赦しは神様の恵みによってのみ、与えられるものであるとルターは言うからです。そしてその考えは聖書に裏打ちされたものでした。

福音が神様の恵みであるということと共に、今を生きる一人ひとりにとってそれがどのような意味を持っているのかは、国、地域性、宗教観によって全く違うものになるでしょう。それゆえ、その場所、その時代における「より良いもの」は、常に変わり続けていくのです。
だからこそ私たち自身もまた、聖書のみ言葉が今の私たちに何を問いかけてくるのかを、常に新たに聞き直していく必要があるのではないかと思います。

4.毎日が宗教改革


「毎日が悔い改めである」とルターは言いました。
キリストが今日聖書の言葉を通して語ってくださったように、ルターがあの日、神様のみ言葉から福音とは何かを聞いていったように、私たち一人ひとりも今日という日から、その福音を聴き取っていきたいと思います。
宗教改革500年を超え、50“1”年目を踏み出す私たちは、これから毎年だって、毎日だって、神様へと心を向ける一人ひとりの宗教改革を起こしてまいりましょう。
必ずそこには、いつでも一人ひとりに与えられる神様の愛と、救いとがあることを、確かに語ってくださった人々がいました。そのことをおぼえて、私たちもこの日をお祝いしてまいりたいと思います。