2018年11月15日木曜日

今週の御言葉~主日説教要旨~

彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」
イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」
イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。


──マルコ福音書12章28-34節

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1.旧約聖書から愛を語る


イエス様が律法学者たちとこうして議論していた時、聖書と呼ばれるものは旧約聖書にあたるものしかありませんでした。イエス様は全く新しいものを言い広めていったわけではなく、律法学者たちと同じ旧約聖書から、答えていかれたのでした。
キリストは旧約聖書の律法を無にしたわけではありませんでした。旧約聖書における神様の言葉の中に、すでに神様の愛は十分に語られていることを人々に語ると共に、その愛に生きていった唯一の人であったのです。

2.ふたつでひとつ


律法学者から尋ねられたキリストは一番重要な掟として、第一に「神様を愛しなさい」ということと、第二に「隣人を自分のように愛しなさい」ということを旧約聖書から言われています。この第一第二、という言葉は優先度を示しているのではありません。律法学者がキリストの言葉に応えているように、この二つの掟は二つで一つであるのです。
この第一の掟はとくに、律法学者たちにとっては毎日繰り返し唱えられてきたものでありました。
キリストはこの掟につなげて、「隣人を自分のように愛しなさい」ということへと繋げていかれました。律法学者たちはこの教えにもその通りですと答えていますが、それはあくまで一番大事な掟であることへの肯定でした。
キリストと彼らとの一番の違いは、その愛に実際に生きたかどうか、ということであるのだと思います。

3.愛することは向き合うこと


キリストが全生涯を通して歩みとおされたその愛とは、「向き合うこと」であるのだと思います。
事実、律法学者たちや多くの人々から罪人として遠ざけられた人々──徴税人や病のなかにある人々──にこそ、キリストは向き合い、かかわっていかれました。それは、神様がそうであったからです。
旧約聖書のなかに記されている人々の姿は神様に正しく清い人々ばかりではありません。責任転嫁や嘘をつき、人を傷つけ、そして快楽を求めて別の神様を信じたりする人々の姿がたくさん記されています。
しかしそれでも神様は第一の掟をイスラエルの人々に語るときのように、何度も呼びかけていったのです。「聞け、イスラエルよ」と。神の民である人々が幾度となく罪深いことをしてしまっても、それでも見捨てることなくなんとかして人々を救いに導こうと呼びかけておられる神様のその姿から、人々の罪に向き合っていくという神様の愛が見えてくるのではないでしょうか。

4.信じる心が愛を生む


だからこそキリストは、神様がそうされたように、その愛に生きていかれました。
私たちもまた、時に誰かとうまく付き合っていけなかったりすることがあるかもしれません。そのようなときにこそ、この掟を思い返していきたいのです。隣人を自分のように愛するために、まずは神様を愛することから始めたいのです。
愛することは、向き合うことです。
私たちが神様に向き合う時、それは神様がお造りになった私たち自身にも向き合うことになるでしょう。誰かを愛することの出来ないと悩むあなたは、神様と隣人を愛することの出来なかった聖書の人々と同じなのです。
だからこそ神様はあなたを愛するのだと、聖書を通して何度でも呼びかけてくださっています。そのような神様を信じること、愛することは、キリストの十字架を通して、そのような神様の愛があなたの隣人にも注がれていることを受け止めることへとつながっていきます。この二つで一つの掟を心に刻みつつ、いつでも神様に向き合ってまいりたいと思います。