2018年11月21日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」


──マルコ福音書12章41-44節

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1.自分のすべてを捧げる


今日の聖書の箇所についての絵画を調べてみると、当時の賽銭箱は硬貨を入れるところがラッパの口のような形になっています。そこに硬貨を投げ入れると、ラッパの口の内側で音を立てて賽銭箱に入る、という仕組みであったようです。
金持ちたちがたくさん硬貨を入れている時は、きっとけたたましい音が鳴り響いていたことだろうと思います。それゆえ本来神様に捧げるためにある賽銭箱は、金持ちたちにとって人々の称賛を得るためのものとして使われていたのです。
それに対して、レプトン銅貨2枚、現在のお金で換算すれば数百円程度しか捧げられなかったやもめの姿は、人々には対照的に映っていたことでしょう。
しかしキリストだけは、このやもめが捧げた献金が、心から神様に捧げるものとしてされたことを見抜いておられました。なぜならやもめにとってそのレプトン銅貨2枚、1クァドランスは、生活費のすべてであったからです。
「生活費」と訳されている言葉は、「生活・生涯」とも訳せる言葉です。つまり彼女が賽銭箱に捧げたのは彼女自身のすべてでありました。
キリストはそのような彼女のうちに、自分自身の全てを神様に委ねていく、その信仰を見ておられたのです。

2.値なしに与えられる福音


マルティン・ルターが宗教改革を起こした時代もまた、この金持ちたちのように信仰の腐敗が起こっていたと言ってよい時でありました。
当時のカトリック教会において売り出されていた免罪符は、買えば買うほど煉獄での償いの期間が減るというものでした。まさに救いがお金によって売買される、そのような状態にあったのです。
ルターはそのような時代のなかで、免罪符を批判するとともに、礼拝においても改革を進めていきました。
その一つに、献金箱を礼拝堂の外に置いたということがあげられます。それは、救いは私たちに値なしに与えられる恵みであるということを表すためでした。

3.御言葉に従っていくこと


礼拝式文の中で献金が含まれている箇所は「奉献」と呼ばれています。
もしルターがしたように、奉献において私たちの目の前に献金箱がなかったとしたら。私たちが私たち自身を捧げることはどのようなことを意味するでしょうか。
ルターが礼拝改革の中心においたのは「みことばの回復」でした。それは説教によって人々にキリストの福音が明確に示されることでありました。それゆえ御言葉を聞いた私たちが、私たち自身を神様に捧げていくということは、神様から与えられた御言葉に私たちが従っていく、ということであるのだと思います。

4.恵みのまなざし


キリストは人々をずっと見ておられました。それは、私たちの奉献もまた、見ておられるということです。
私たちが礼拝を終え、教会を後にした日々の中においても、いつでも御言葉が私たちと共にあります。片時も離れず、キリストは私たちを見ておられるのです。それは、私たちが御言葉に従わなかったときに裁くためではありません。
私たちが神様に捧げる信仰がどんなに小さなものであっても、「だれよりもたくさん入れた」とやもめに言ってくださったように、私たちの信仰から出る行いのすべてを受け止め、神様の前で大きなものとしてくださる、ということなのです。
御言葉を通して与えられ、整えられる信仰によって、わたしたちのすべて、精一杯のものを、神様にお捧げしてまいりたいと思います。