2018年11月29日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」
「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」


──マルコ福音書13章24-31節

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1.神の国が来るとき


「それらの日」と呼ばれている日について、キリストは弟子たちに語っています。国と国、人と人との争い、地震と飢饉、弟子たちの苦難が起こったのち、再びキリストがやってこられるのであると。
「時代」という言葉が原典で使われている箇所を見ると、「しるしを求め(マルコ8:12)」、「神に背いた罪深い(8:38)」「信仰のない(9:19)」時代のことを指しています。それらの日とは、その時代が天地と共に滅びた時、キリストの言葉のみが残る時代であるのです。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。(1:15)」そのようなキリストの言葉からマルコ福音書は始まっています。すなわちキリストの言葉、その福音のみが残るときとは、福音が全ての人に行き渡るときであり、近づいた神の国がついに成就するときであるのです。

2.いつくるかわからない神の国


神の国が具体的にどのようなものであるかは謎めいています。マルコ福音書においては一貫してそこには「神様のみ言葉に聞く人」がたとえなどによって表現されているように見えます。しかしその反面で、わたしたち人間が御言葉に従って生きることが難しいという姿も多く描かれています。
それゆえ弟子たちは「そのことはいつ起こるのですか(13:4)」とキリストに尋ねています。神様の国がやってくる、そこでは全ての人が御言葉の通りに生きることが出来る、そのような時を待ち望むのは当然のことであったでしょう。
しかしキリストは最後まで、いつくるのかを語ることはありませんでした。天の神様のみがご存知であるのだと言うのです。

3.知らされない幸い


私たちにとってもまた、神の国がいつ来るのかを知りたいと願うことかもしれません。誰かを愛することが出来なかったり、進むべき道が見えずに迷うときや、堪えがたい苦難の中にあるときに、私たちはそれが取り去られる神の国を神様に祈り求めるのではないでしょうか。
神の国は明日にでも来るのだという切迫感を持っている人々もいます。逆にもっとずっと先なのだと思う人もいるかもしれません。
毎日、「明日神の国はくる」と思って生活するとき、そればかりに縛られてしまって、明日以降の生活には手がつかず、私たち自身はすり減っていってしまうことでしょう。逆にもっと先なのだと思うとき、私たちはとことん怠惰になってしまって、御言葉に従い、人を愛することすら億劫になってしまうかもしれません。それが罪の力であるからです。
しかしその二つの間にあって、明日にでもくるかもしれないという思いは私たちを今、神様の御言葉を振り返らせる力になるかもしれません。そしてそれでも神様に正しく生きることの出来ない自分がいるときにも、御言葉に再び聞いていく中で、神様と共に明日を生きる力に満たされることもあるのだと思います。
そうして終末というゴールが確かに私たちの歩みの先にあることを見据えながら、時に神様から離れてしまうこともあり、反省して悔い改めることもあり、また喜びに満たされることもあるかもしれません。
そのように一日一日を「神様のみ言葉が私と共にあった」とおぼえて歩んでいくことが、私たちキリスト者の在り方であるのだと思います。


4.あなたの名前が呼ばれるまで


神の国がやってくる「そのとき」、キリストは「地の果てから天の果てまで、彼によってえらばれた人たちを四方から呼び集める」と聖書は語ります。私たちがそのとき、地上の生を歩んでいようとも、天に召されていようとも、キリストは滅ぶことのない御言葉をもって、一人ひとりの名を呼びかけてくださいます。
神の国がまさにやってくる、神様との関係が全き完成を見るその日まで、私たちはこの歩みを地道に、しかし誠実に、御言葉と共に歩み続けてまいりたいと思います。