2018年12月6日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」
使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。二人は、「主がお入り用なのです」と言った。そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」
すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」

 ──ルカによる福音書19章28-40節

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1.アドベントの初めに


今週から、教会ではクリスマスの季節が始まりました。キリストの誕生をおぼえる季節の初めに、なぜこの箇所が選ばれているのでしょうか。
キリストがエルサレムへと入城される時、それはキリストが十字架の苦難への道を決定的に歩み始められた時でもあります。そしてそのキリストの十字架とキリストの誕生とは、分かちがたく結び合っているからなのです。


2.メシア


人々は旧約聖書に預言されているメシアを待ち望んでいました。人々にとってメシアとは、イスラエルをローマ帝国の支配から解放してくれる存在、政治的な救い主として捉えられていました。
それゆえイエス様のエルサレム入城は、そのような新しいイスラエルを待ち望む人々の熱狂に満たされているように見えます。


3.エルサレム入城


そのため、エルサレム入城の場面からは、一見王の凱旋パレードのような要素を見出すことが出来ます。しかしその一つ一つを見てみると、王の凱旋と呼ぶにはあまりにも質素な姿が見えてくるのではないでしょうか
キリストが弟子たちを遣わして連れてきたのは子ロバでした。またその子ロバを管理していた「持ち主たち」も複数人であることからも、その貧しさがうかがえます。
子ロバに乗ったキリストが歩む道に、「人々は自分の服を道に敷いた」とあります。この人々とはキリストに従っていた人々のことですが、彼らは決して権威や地位の高い人々ではありませんでしたし、キリストが歩まれたその道は、彼らの貧しい服の上でありました。
このことから、王であるキリストがイスラエルにもたらされる救いとは、地位や権力、武力によって対抗し、支配を脱するという人々のメシア像とは違うものであることを聞き取ることが出来るのではないでしょうか。


4.救いと平和


弟子の讃美の声に包まれながら、キリストは十字架への道を進んで行かれました。
「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」
この讃美の言葉は、キリストがお生まれになったとき、羊飼いたちのところへやってきた天使が歌った讃美の歌(ルカ2:14)に非常によく似ています。天使たちはこのように歌うのです。「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」
この二つの讃美の中で、「平和」のある場所に決定的な違いが見られます。キリストがお生まれになるとき、平和は「地に」あります。そしてキリストが十字架へと進んで行かれるとき、平和は「天に」あります。十字架によってキリストは天にあげられるからです。
それゆえ、キリストによって私たちにもたらされる救い、それは平和であると言えるのです。


5.先立つ主


キリストの与えてくださる平和とは、十字架による赦しを信じるときに与えられる、神様との関係の中にある平和であります。キリストは、王でありながら、弱く貧しさをまとってエルサレムへと入っていかれました。それは全ての人の弱さに寄り添う王であったからです。
私たち一人ひとりの弱さが、そのようなキリストを通して、神様によって受け止められている。赦され、愛されている。それは私たちが与えられている平和であるのだと思います。
そして私たち一人ひとりがそのキリストの平和を受け取るとき、他の誰かとの関係もまた、平和への道が開かれていくのだと思います。
私たちと神様との関係、私たちと他の誰かとの関係が平和で満たされるために、キリストは「先に立って」十字架の道へと進んでいかれました。この「地に」、平和をもたらすためにお生まれになります。私たちはそのことを心に留めつつ、キリストを待ち望むこの季節を歩み始めてまいりたいと思います。