2018年12月13日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、/山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、/でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」

──ルカ福音書3章1-6節

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1.洗礼者ヨハネ


洗礼者ヨハネ、と言うと、その名の通り人々に洗礼を授ける人としてのイメージが強いのではないかと思います。しかしルカ福音書においては、悔い改めの洗礼を「宣べ伝えた」というほうに重点が置かれています。
それゆえ今日の箇所の続きには、洗礼を受けようとしてヨハネのもとへと集まってきた人々に対して、ヨハネは「悔い改めに相応しい実を結べ」と言っています。このことから、洗礼というのは確かに罪の赦しのために行うものであるけれども、あなたがたにとってその赦される罪とはどのようなものであるのか、はっきりと見据えたことはあるか、とヨハネは問いかけているように思います。

2.自らを顧みるための勧め


人々は、悔い改めの実を結ぶために「わたしたちはどうすればよいのですか(3:10)」と問いかけ、ヨハネは答えています。
群衆たちには、自分が持っているものを隣人と分かち合うことを勧め、人々から何かを受ける徴税人や兵士には、取りすぎないようにと勧めるのです。
彼らにそのようにヨハネが勧めたのは、他者とのかかわりの中で彼らが他者への愛のうちに生きてはいなかった、という現実があったのではないでしょうか。

3.私たちの限界はどこにある


私たちもまた、キリストを待ち望む今の季節に選ばれたこの御言葉から、ヨハネの悔い改めの勧めを聞くのだと思います。
私たちはいつでも誰かと喜びを共にし、悲しみを分かち合って慰めを受ける、そのような関係を築けているでしょうか。いつでも愛をもって全ての人と関わることが出来ているでしょうか。
聖書は愛なる行いを私たちに勧めてきます。しかしそれゆえに、他者にいつでも愛をもって関わることの出来ない私たちがいることも知るのだと思います。様々な関わりの中で、愛の行いへの勧めは、私たちの重荷へと変わっていくことすらあるかもしれません。
しかし、そのようなことがあってもよいのです。私たちが私たちの限界を見るとき、もう神様に頼るしかないと願うその場所にたどり着いたとき、はじめて、私たちと神様との間にある道は、まっすぐにされていくのだと思います。

4.弱さの中に遣わされた人


今日の箇所の初めには、時の権力者たちの名前が連なっています。しかし神様の言葉が降ったのは彼らではなく、ヨハネと言う無名の人でありました。またキリストご自身も、イスラエルの誰も注目することのない田舎、ベツレヘムでお生まれになっています。
このように神様が遣わしたヨハネとキリストから、私たちの限界/弱さを通して関わってくださる方であることが、証されているのではないでしょうか。

5.まっすぐ受け止めるために


誰かとの関わりを道として見るときに、それがまっすぐになる、ということは、その道の先に、関わる人の姿が見えるということです。私たちがその道をどのように歩けばよいのか、つまりどのように関わっていけばよいのかが、はっきりわかる、ということであります。
それは神様との関わりにおいても、同じであります。なぜならイエス・キリストは、私たちと同じ人間として、お生まれになる方であるからです。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。」とイザヤの預言が引用されているように、イエス・キリストの降誕を前にして、その道を備える者として遣わされたのがヨハネでした。
それゆえ私たちもまた、今日、この御言葉を通して、自分自身を顧みるときを持ちたいと思うのです。
私たちの限界、弱さのゆえに私たちが神様に寄り頼むとき、私たちと神様との道はまっすぐになるのです。それこそがヨハネの語った「悔い改め」であり、そのようなわたしたちのところへやってきてくださるキリストを、まっすぐに受け止めていく、備えとなるのです。