──ルカ福音書1章26-38節
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1.救いの喜びとマリアの現実
マリアの受胎告知、という場面を見たとき、私たちはそれをどのように捉えるでしょうか。全ての人の救い主、イエス・キリストが与えられたという祝福に満ちた宣言、またわたしたちの救い、喜びの始まりであると捉えるかもしれません。
しかしそれは、私たちが福音書において語られたイエス・キリストの救いの全てを知っているからこそ、そのような見方が出来るのではないでしょうか。
マリアが救い主を宿している、その知らせを受けたとき、そこにあった現実は不安と苦難に満ちたものであったのだと思います。
2.マリアの不安
「あなたは神から恵みをいただいた」と天使はマリアに言っています。神様からマリアに与えられた恵みとは、そのすぐ後に続けられる「あなたは身ごもって男の子を産む」ということでした。この言葉に対して、マリアは男の子が偉大な人になること以上に、「わたしは男の人を知りませんのに」と疑問を返します。
当時のイスラエルにおいて、婚約関係を結んだ時点で結婚は成立していました。それゆえ、ヨセフと関係をもっていないにも関わらずマリアが妊娠をした、ということは、姦淫を犯したと判断されてしまう可能性がありました。
姦淫を犯した者は「必ず死刑に処せられる(レビ20:10)」と定められていたため、このマリアの問いかけには不安がにじみ出ているように思います。
このときのマリアにとって、天使の言葉は到底恵みとして受け入れられるものではなく、いのちの危険の不安にさらされる出来事であったのです。
3.神の言葉に信頼する
マリアはここで命の危険にさらされるような困難の中にあります。当時世界の誰も知られていない救いの福音は、わずかに天使の言葉によって語られるだけでありました。
しかしここで、目の前にある困難と不安にさいなまれながらも、天使を通して語られた「神にできないことは何もない」という言葉にのみ信頼し、マリアは「お言葉通り、この身になりますように」答えていったのです。
4.祝福を背負う信仰
私たちもまた、いつだって私たちが神様に願うことが叶うようにと求めていますし、願い通りに聞き届けられた時には、喜びにあふれることであるでしょう。
けれども現実には、願ってもいない困難が降りかかることも多くあるのだと思います。それゆえに神様に対して状況の改善を願っても、それがすぐには聞き届けられないように感じることもあるかもしれません。
そのようなときにこそ、マリアの言葉を思い起こしてまいりたいのです。ただ天使を通した神様の言葉にのみ聞き、困難という名の祝福を背負っていったマリアの姿に、私たちは「信仰」を見るのではないでしょうか。
5.キリストが共におられる
私たちの願いが祈りになる瞬間とは、このようなときであるのだと思います。
私たちが一方的に神様に願うのではない、願いが聞かれていないように思えるときにこそ、神様の言葉、聖書の御言葉に尋ね求めていくこと。そのとき、願いは神様との対話、祈りとなっていくのだと思います。
喜びも、苦しみも。神様との対話である祈りを通して、私たちに与えられるものすべてが神様の恵みに通じていることを、マリアは語っています。そして私たちの救いのために十字架の苦難への道を歩まれたキリストがこの世に来られたことを、聖書は語っているのです。
だからこそ、私たちの隣には、いつでもキリストが共におられます。喜びも苦しみも共に担ってくださるために、キリストはお生まれになられるからです。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
この御言葉と共に、私たちもキリストの生誕をおぼえるクリスマスに向かって、歩み通してまいりたいと思います。