2019年1月24日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。
イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。


──ルカ福音書4章16-32節


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1.品定めをする目


イエス様が育った故郷のナザレで説教を始めようとするとき、「会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた」とあります。また、キリストは先んじてナザレの人々に言っています。「『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」
これらのことから、ナザレの人々はイエス様の奇跡的なわざを期待していたことがわかります。もっと言えば、奇跡によって私たちに利益をもたらしてくれるのか、そうでないのか、という品定めをする目線で見ていたのかもしれません。

2.信仰と信頼の差


クリスチャンであり哲学者の森有正という人が、信頼と信仰の違いについて、次のように語っています。
信頼とはその人を頼れるだけの積極的な理由のある時に持つことができるものである。しかし信仰とは、信頼の念を起こさせるような積極的な理由や好ましい要素がないにも関わらず、本当であると信じることであるのだと。
ナザレの人々はイエス様が自分たちのために奇跡を起こすことがないとわかると、崖から突き落とそうとしています。彼らはイエス様を、私たちのために奇跡を起こしてくれないのならば、あなたは必要ない、と切り捨てていったのです。それは信仰ではありません。自分のモノサシで相手をはかろうとする、身勝手な信頼に過ぎないのです。「この人はヨセフの子ではないか」という言葉にも表れているとおりです。

3.切り捨てられた人のために


キリストはナザレの人々に追い立てられてなお、何も語ることなく彼らの間を通り過ぎて行かれました。なぜならキリストは貧しい人、捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人のために遣わされたからです。その人々は、まさにナザレの人々がイエス様にしたように、品定めをされ、そして切り捨てられてきた人々であったのだと思います。
私たちもまた、社会の中で、人と人との関わりの中で生きるとき、そのような目の中で、身勝手な信頼を背負わされていくことが多くあるのではないでしょうか。あなたは何ができるのか、ということをいつも求められ、それに応えていくことで仕事を得たり、人との関係を保つことに疲れてしまうことはないでしょうか。
さらには私たち自身もまた、そのような目で誰かを見てしまってはいないか、という問いを、ナザレの人々の姿から聞き取ることができるのだと思います。

4.モノサシは使わないで


たとえあなたが何のとりえもなくたって、何もできなくたって、ここにいてよいのだと言ってくださるキリストがおられる場所。それが、教会であるのだと思います。だから私たちは、あなたは何ができるのかという言葉にあふれた社会から、日曜日ごとに、ここに帰ってくるのだと思います。
私たち一人一人が、何もできないのだ、というところに帰ってくるその時、キリストによって、何もできなくたっていいのだと赦されていることを知る、その時に。私たちもまた、互いに赦しあう心を与えられていくのではないでしょうか。そうして私たちも、誰かを品定めしてしまうそのモノサシを捨てていくことができるのではないでしょうか。
それこそがキリストに対する信仰によって起こることであるのだと思います。キリストはそのような私たちの関係の中に、解放と、回復と、そして自由を与えてくれるのです。それがキリストの告げる福音であり、恵みであるのです。