さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」
──ルカ福音書6章17-26節
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1.幸と不幸の逆転
マタイ福音書においては所謂「山上の説教」と呼ばれるものの一部が、ルカ福音書においてもここで取り上げられています。
私たちが一般的にとらえる幸いと不幸について考えるとき、今日の箇所はそれとはまったく逆のことが語られているように感じられるかもしれません。
富んでいること、満腹すること、ほめられることのどこが不幸であるのでしょうか。
また、貧しいこと、飢えていること、泣いていることが幸いであるという言葉を、わたしたちはどのように受け止めればよいのでしょうか。
2.それは不幸なのだ
あなたにとって何が、幸せと呼べるものでしょうか。
それはお金であったり、満腹になることであったり、あるいは褒められることかもしれません。しかし私たちの体と心に与えられるものを含め、私たちが自分の力で手に入れることのできるものはすべて、いつかは失われてしまうのです。そして私たちは再び失われたそれを求めて駆けずり回り、疲れ果ててしまうこともあるかもしれません。
だからこそ、一時の幸せではあっても、それは本当の幸せではないのだ、とキリストは言われるのです。
3.絶望の中にこそ希望はあるというけれど
聖書を文字通りに読めば、本当の幸せは貧しさと飢えの中や、悲しんでいる中にあると語っているように思えます。
それは私たちが自分の力ではどうしようもない貧しさを知るとき、神様が与えてくださる幸いがはっきりと見えるようになるからです。
けれどもそのように読むのだとしたら、私たちは神様の幸いを受けるために、常に貧しく、飢えと悲しみの中に留まっていなければならないのでしょうか?
4.罪という名の病
地上に生きる私たちを最も悩ます不幸とは何でしょうか。それは病であると思います。
この病とは、身体の病気だけを指すのではありません。私たちは心にも病を抱えることがあるからです。自分の力ではどうしようもないことに対して起こる絶え間ない不安や、人間関係の破れや痛みを抱えることもあります。
たとえ病でなくとも、一時の幸いを求めて疲れ果ててしまうことすらある私たちは、その在り方そのものが、病の状態にあると言えるのではないでしょうか。
言い換えればそれは、罪という名の病とも言えるのだと思います。
5.キリストの言葉といやし
人々は「イエスの言葉と病のいやし」を求めてキリストのところへとやってきています。そしてキリストに触れることによって、「すべての人の」病はいやされていきました。
自分の力ではどうしようもない貧しさの中ある時、私たちは、聖書のみ言葉を通して慰められ、満たされ、力づけられていくことがあります。み言葉を心に刻み、何度も思い返すこともあります。
それはここに記されている人々のように、罪の病の中にある私たちが、み言葉を通してキリストに出会い、いやされていくということなのだと思います。
まさにその時、その聖書の言葉は“わたしのために語られたみ言葉”となるのです。そこには私たちが神様に触れ、いやされたという幸いが結びつけられているからです。
6.本当の幸い
あなたにとって、あなたのために語られたみ言葉とは、なんでしょうか。
それはもしかしたら、これから最も貧しさや悲しみに暮れるときに見つかるものかもしれません。
貧しさと悲しみ満たされる時、それは慰めと救いを与えるでしょう。
満たされているときには、謙虚さを与えるものとなるでしょう。
なぜならそれは、かけがえのない私たちを幸いへと導くために、神様が語ってくださったみ言葉であるからです。
だからこそ、私たちはそのみ言葉を通していつだって神様に心を向けてまいりたいのです。そのみ言葉を心に刻み、いつだって思い起こしてまいりたいのです。
本当の幸い──それは、かけがえのないあなたのために語られたみ言葉が、聖書の中に必ずある、という福音なのです。