2019年2月21日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」
イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」
「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」
「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」


──ルカ福音書6章37-49節

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1.相互的な関わり


キリストは私たちに、聖書の言葉を聞くだけではなく、それを行いなさいと求めておられます。
しかし今日の箇所でキリストが伝えようとしているのは、もはや私たちが「何を行うか」ということについてではありません。
師として誰かを導こうとするときに、自分にある大きな欠点は棚に上げ、相手の小さな欠点を指摘しようとすることについて注意を促しています。
私たちの口から出る言葉は、心から出るものであるという言葉は、私たちが関わる相手にとってもそのようにみられる、ということでもあるのだと思います。そして裁かないことの勧めにおいては、相手からの関わりを通して自分を振り返ることを教えています。
「あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」と言われているように、キリストの言葉に従う私たちの行為は一方的なものではなく、相手との関わりのうちにある相互的なものなのです。

2.キリストに従う行為と悔い改めのループ


この箇所でキリストが私たちに語っているのは、キリストの言葉に従おうとするとき、私たちの中にある罪によってそれが歪められることも多くあるということです。相手から見れば、全くの善意でありながら、目に丸太を入れたまま相手の目にあるおがくずを取ろうとするような状態が私たちに起こるということです。
それゆえ、私たちはキリストの教えに従って関わろうとする反面、その難しさゆえにキリストの教えによって自省することもあります。その繰り返し、行為と悔い改めとの間で思い悩む日々の中に、私たちは生きているのです。

3.キリストの言葉を土台に据える


キリストは、そのような私たちに、家を立てた人のたとえを語ることで、この説教を締めくくっておられます。キリストの言葉を聞き、それを行う人とは、私たち自身の罪に深く向き合い、その土台にキリストの言葉を据えた人なのです。それは、私たちが神様との関係の中で、かけがえのないみ言葉を見つけ、心に刻むということでもあると思います。


4.罪が取り除かれる時


私たちの思い悩む日々はいつまで続くのでしょうか。
その原因である罪が取り除かれるとき、それはわたしたちの地上の命が終わり、復活が与えられるときです。
パウロは死者の復活についてこのように語っています。
「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。(第一コリント15:19-20)」

5.自省と先導に生きる


私たちは罪のゆえにキリストの教えに従い、完全な行いをすることができません。しかしその罪のゆえに、私たちはキリストに出会うのです。
私たちは聖書の言葉によって、キリスト者としての救いへと招かれています。
そして救いの中には、私たちの罪が取り除かれる復活もまた、キリストの十字架と復活によって約束されているのです。
イエス・キリストはその最初の方として復活されました。それは、私たちの罪のゆえに十字架の上で死なれましたが、今は復活して、私たちの歩む道の先に生きて立っておられるということなのです。
そしてまた私たちは、他の救いを求める誰かのために、このキリストの福音のための行為へと押し出されていくのです。
そうして、復活のキリストからわたしたちへ、そしてすべての人がこの福音に与るために、キリストは私たちをみ言葉に従う者として、召し出してくださっているのです。
この地上の命が終わるその最後の時まで、そしてその先にある復活のいのちに向かって、揺るがないみ言葉を土台に据え、私たちはキリスト者としての歩みをこれからも続けてまいりたいと思います。