2019年3月8日金曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

──ルカ福音書9章28-36節

† † †

1.十字架は何のシンボル?


多くの人にとって、十字架はキリスト教を思い起こすシンボルです。信仰を持つ人々にとっては、救いの喜び、というイメージが大変強いのではないでしょうか。
十字架のキリストによってわたしたちが赦されていること、キリストを信じる者には、復活の喜びが約束されるという救いこそ、キリストの語った福音であるのは確かです。
しかし十字架が本来、磔刑という最も罪の重い者がかかる極刑であった、ということも私たちは忘れてはならないことなのだと思います。

2.示される十字架への道


キリストが山で祈っておられると、服が真っ白に輝き、モーセとエリヤの二人がキリストと語り合っているのを弟子たちは目撃しました。
彼らはエルサレムで遂げられるキリストの最期について語っていた、とあります。最期とは、キリストの十字架の死のことを指しています。
まさにこの瞬間、キリストにとって十字架への道が神様からはっきりと示された時でもあるのです。
旧約聖書の中でモーセはイスラエルの人々をエジプトから救い出し、十戒を始めとした神様の律法を人々に取り次いだ人でした。エリヤもまた不信仰に陥る人々に神様の言葉を取り次ぐ預言者でした。キリストを含めたこの三人は、神様の言葉を人々に取り次ぐ役目を担った三人であったと言えるかもしれません。
雲の中から神様が言った「これに聞け」という言葉は、キリストこそが神様の言葉を取り次ぐものである、ということと共に、十字架の道を進みゆくキリストに従っていきなさい、と神様は言っておられるのです。

3.罪の姿


しかし福音書は誰一人として、最期までキリストに従っていけなかった弟子たちの姿を記しています。
十字架とは本来、神様からの救いから最も離れている私たちの罪をあらわにし、挫折させるものであるからです。
だからこそ私たちはその先にある赦しと救いだけに目を向けるのではなく、今一度、たったおひとりでその堪えがたい苦しみにむかっていかれたキリストに迫ってみたいのです。
それは、私たち自身の罪の深さに目を向けることです。

4.「エクソドス」とは


キリストの「最期」という言葉は、原典では「エクソドス」という言葉が使われています。この言葉は「死」という意味だけでなく「旅立ち・出発」という意味も持っています。
ルカがこのように真逆の意味を持つ言葉を選んだのは、このような逆転こそが、神様の御業における特徴であるからなのだと思います。
まさにキリストの十字架の「最期」は、復活によって永遠の命への「出発」へとつなげられていきました。私たちが罪によって挫折するからこそ、キリストの赦しと招きによって再び起こされるように、私たちが罪の深さを知れば知るほど、キリストの救いと恵みはより一層深く私たちの心に与えられていくものなのです。

5.「エクソドス」に向かって


私たちの地上での歩みは十字架の重荷と共にあります。キリストの十字架によって私たちの罪が赦されても、罪そのものが取り除かれるわけではないからです。
しかし私たちがその十字架の重さを知るときにこそ、全く罪のないキリストがその十字架を共に担ってくださるという福音に出会うのです。
そのようなキリストを信じて地上の生涯を歩みとおした「最期」の時にこそ、私たちは永遠の命へ向かって「出発」することになるのです。
だからこそ神様は今も、十字架を背負って歩む私たちに、語っておられます。
「これに聞け」と。
どのような試練の中にあってもなお、私たちの十字架を共に背負って歩んでくださるキリストの言葉を支えとして、私たちは私たち自身の罪をいつだって見つめなおしてまいりたいと思います。