ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』
すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
──ルカによる福音書15章11-32節
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1.うしなわれていた弟
父親が兄弟に分けた「財産」とは、「いのち・人生」という意味を持つ言葉でもあります。しかし弟はそれを自分の欲望のために金に換え、無駄遣いの限りを尽くしています。
弟は生きるのにも困るようになって初めて、父親のところにあった豊かないのちについて思いめぐらせ、悔い改めるのです。自分はもはや息子と呼ばれる資格すらないけれど、雇い人で十分だから、父親のところへ戻りたい。そう願って帰ってきた息子を、父親は叱るどころか赦しと愛をもって、雇い人としてではなく、息子として再び迎えるのです。
2.神様から与えられ、神様のために用いる
神様から与えられたいのち、というと少しぼんやりとしたものを思い浮かべてしまいますが、たとえば自分が得意だと思うことや、長所を思い浮かべるとわかりやすいかもしれません。
他の人より得意なことで誰かの役に立てることは悪いことではありませんが、それによって得られる満足感を自分の中心に置いてしまうなら、私たちは満足感を得るために自分自身のいのちを切り売りすることになるでしょう。それはいっときの満足に過ぎず、またすぐにも飢え渇いてしまうことになります。
弟は雇い人にしてもらうために父親のところへ帰ることを決意します。父親のところには、あふれるほどのパンも雇い人もたくさんいることを思い出したからでした。私たちに与えられたいのちは、神様のために用いるときにこそ、尽きることなく、満たされるものとなるのです。
3.二人の息子
自分の思い通りにしたいと願う欲望によって神様から自ら離れ、飢え渇いてしまう者を、神様は赦し、再び受け止めてくださるという愛と救いを、このたとえ話からは聞き取ることができます。しかしこのたとえ話が語っていることはそれだけではないのです。たとえ話の初めに、キリストは「二人の息子がいた」と語り始めておられるからです。兄の物語を通して、キリストは私たちに鋭い問いかけを残して終わるのです。
4.うしなわれていた兄
兄は弟の待遇に怒りをもって父親に反論しています。兄は弟とは正反対に、一度も父親に背くことなく過ごしてきました。「それなのに、」弟ばかりが父親から贔屓をされているように見えたのかもしれません。
それゆえ兄はここで「私は神様に従った、だから神様も私の願いを聞いてくれてもいいだろう」と願っているのです。弟は従わないことによって、兄は従うことによって、神様から与えられる「財産/いのち」をわがものとする欲望にとらわれているのです。
5.うしなわれている私たちに向けて
このたとえ話は、確かな救いがあるという福音が弟の姿を通して語られると同時に、私たちにその先の信仰生活について問いかけを与えてくれるものでもあります。私たちは日々聖書のみ言葉に従って歩もうとする中で、いつしかその報いを対価として求めてしまってはいないでしょうか。
だからこそ神様は私たちに「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」と言ってくださっています。私たちに必要なすべてのものは既に与えられていることを思い起こし、悔い改めるとき、キリストに従うことによって起こる私たちの飢え渇きもまた、取り除かれていくのです。
神様は、この二人の息子の姿を通して、キリストの言葉によって共に生きる人々の救いの喜びを分かち合う祝宴へと私たちを招いておられます。
キリストの言葉を聞く私たちは、一人ではありません。誰もが神の家族の一員として招き入れられる、その祝宴への招きに応え、共に喜びを分かち合うような、信仰の歩みを続けてまいりたいと思います。