イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。
──ルカ福音書20章9-19節
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1.あってはならないこと
ここでキリストのたとえ話は、神様が農夫たちにぶどう園を委ねなければ、ぶどうの実りは本来与えられることのなかった恵みであることを忘れてはならない、という悔い改めのメッセージを語っています。
キリストがたとえ話を終えられたあと、人々は「そんなことがあってはなりません」と言っています。
民衆たちはたとえ話から悔い改めのメッセージを聞き取り、主人である神様から委ねられているぶどう園の実りを自分のものとしてしまうことは、あってはならないことだ、と言ったのでしょう。
しかしそこで、律法学者たちは全く別の捉え方をしています。
2.救いは与えられるもの
律法学者たちは神様に正しくあろうとして、律法を守ることを第一に考えていた人々でした。
なぜなら律法を守るということは、神様から正しい(義)とされること、つまり救いが与えられるために必要なことであると信じていたからです。
彼らは、本来神様から与えられるはずの救いを、自分の力で手に入れようとしていた人々であったと言えるでしょう。
それはまさに農夫たちのように、救いという名のぶどうの実りを、神様から与えられるのではなく、自らの努力によって手に入れようとした姿に重なるのです。
だからこそ彼らは、「神様から委ねられたぶどう園が自分たちから奪われる」という「そんなこと」はあってはならない、と感じたのだと思います。彼らはたとえ話の通りに、神様の御子である「イエスに手を下そうと」しているからです。
3.神様に委ねていくとき
教会では「神様に委ねなさい」という言葉を多く聞くかもしれません。しかし私たちの日々の中でその言葉はどのような意味を持っているのでしょうか。
神様に委ねたところで、神様は何もしてくれない──結局私たちは自分で苦労をして、目の前にあることをやっていかなければならない、と思うかもしれません。
しかしそのように思う時にこそ、私たちは神様ではなく、自分たちが育てたぶどうにしか目を向けていないと言えるのではないでしょうか。
私たちがぶどうを育てることは変わりません。しかしそうして実ったぶどうを神様に再び委ねていくとき、神様はわたしたちの想像を超えた実りを与えてくださるのです。
4.委ねられているものを通して
神様は私たちにぶどう園を委ねられました。それは私たちに与えられているいのち、賜物、私たちが持っているものすべてを表すものです。
私たちが実際に生きて、考え、苦労し、人と関わる中で、様々なものが与えられることでしょう。人との出会いやつながり、お金や食べ物、喜びも悲しみも、私たちが生きているからこそ与えられていく、ぶどう園の実りなのです。
しかしその実りが小さいとき、自分にはこんなことしかできないと落ち込むときもあるかもしれません。だからこそ、神様はあなたの実りをいつもわたしに委ねなさいと呼びかけておられるのです。
私たちが生き、様々な実りが与えられていく中に、時に思いもかけない出会いが与えられたり、予想を超えた様々な出来事が起こるかもしれません。それは私たちの努力では収穫することのできない、確かな神様のわざなのです。
私たちが生きる中にいつも神様は働いてくれていると信じること、これこそ神様が働いてくださったことだと聞き取っていくこと。それこそが「神様に委ねる」ということであるのです。