2019年4月25日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

 ──ルカ福音書24章1-12節

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1.イエスの言葉

教会の暦ではイースターを迎えました。主の復活を喜び祝う日です。しかし不思議なことに、この聖書の箇所からは主の復活を「喜ぶ」という言葉は見当たりません。婦人たちは空の墓をみて途方に暮れ、弟子たちは復活の知らせを聞いてもたわ言だと聞き入れようとはしないのです。
彼らが復活を受け止められなかった理由は、天使から復活の知らせを聞いたあとの婦人たちの姿を見るとわかるかもしれません。
途方に暮れていた彼女たちを立ち上がらせたのは、「婦人たちはイエスの言葉を思い出した」ということであったからです。

2.受難予告は受け入れられない

イエス・キリストは十字架におかかりになるまえ、弟子たちに対して何度も十字架の死と復活について予告しておられました。弟子たちや、付き従っていた婦人たちも聞いていましたが、誰もがその言葉を受け入れたくはなかったことでしょう。
しかしその時は来てしまいました。弟子たちはほとんど残らず散り散りに逃げ出してしまい、十字架のイエス様の最期を見ていたのは婦人たちでありました。
誰もが、キリストをこの世から失った悲しみに満たされ、そしてなぜ彼が十字架につけられなければならなかったのかと問い続けたことだろうと思います。

3.十字架を受け止められなかった人々

婦人たちが天使の言葉を受け入れ、キリストの言葉を思い起こすためには、覆ることのない現実としてキリストの死を受け止めるところから始まっているのだと思います。
弟子たちもまた、キリストの十字架の知らせを受け、同じように問い続けたはずです。しかし弟子たちは他者からもたらされたその十字架の知らせを受け入れることが出来なかったからこそ、復活の知らせもまた、受け入れることが出来ないでいたのです。
十字架のイエスから逃げ出したことによって、彼らは復活のキリストが弟子たちの前に顕れるまで、誰の言葉も聞くことが出来ずに一歩も動けなくなってしまったのです。

4.永遠の御言葉として響くために

それゆえ、キリストの復活の喜び、というものを与えられるときとは、復活のキリストに出会ったときである、と言えるでしょう。
実際に復活のイエスに語り掛けられて、弟子たちは信じることができました。
婦人たちはキリストの予告の言葉を思い起こすことによって信じ、他の人々に復活の一部始終を語るために帰っていきました。
復活とは、単なるいのちの蘇生ではありません。ギリシャ語では「再び起き上がらされる」という意味を持った言葉です。神様によってイエス様は新しいいのちを与えられて、再び起き上がらされていったのです。
それは見なければ信じられない弟子たちのためであり、復活の知らせを通して婦人たちの中にキリストの言葉が再び起き上がらされるためでした。
「必ず」と彼が予告したその御言葉のゆえに、キリストの復活は、時代を超えてすべての人々に永遠に生きて響く御言葉となるために起こったのです。

5.キリストは生きておられる

聖書という書物を通して、私たちはキリストの言葉を聞くことが出来ます。けれどもすべての言葉が、今の自分には信じられない、受け止められるものではないと思うかもしれません。
しかしそれでもよいのです。
キリストが十字架の受難と復活の予告をしたとき、誰もそれを受け止めることが出来ませんでした。けれども婦人たちも、そして後の弟子たちも、復活のキリストの一部始終を語り広めるために立ち上がらされていきました。それにふさわしい時が、誰しもに用意されているのです。
全てのみ言葉はここにあります。復活して、生きた神様の言葉として、今この瞬間も、あなたのために語られ続けています。
私たちが日々の中の出来事を通して御言葉を思い起こす時、私たちは復活のキリストに出会うのです。
その方は、今もなお、あなたと共に生き、あなたを愛し、受け止め、慰め、癒し、支え、そして導いてくださるお方なのです。