2019年5月16日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」


──ヨハネ福音書10章22-30節

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1.わたしの羊ではない

イエス・キリストとは何者であるのか、という問いに対して、イエス様は多くのたとえを用いて答えられています。ヨハネによる福音書の10章には「わたしはよい羊飼いである」ということがファリサイ派の人々に向かって語られていますが、彼らは理解することが出来ず、またユダヤ人たちの対立を深めただけでありました(ヨハネ10:19)。
それゆえユダヤ人たちの「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」という言葉からは、イエス様からメシアであるという言質を引き出し、明確な敵・悪として裁きたいという思いが聞き取れます。
それゆえイエス様は彼らに繰り返して言うのです。
「あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである」。

2.ユダヤ人がイエス様を拒んだ

この言葉は、イエス様が彼らを救いにふさわしくないと見捨てた言葉ではないのだと思います。
なぜなら「わたしはよい羊飼いである」と話し始められたのは、他でもないファリサイ派の人々、ユダヤ人たちに向けて語られたたとえ話であったからです。
「私の羊は私の声を聞き分ける」と言われた通り、イエス様がユダヤ人たちを見捨てたのではなく、ユダヤ人たちがイエス様の羊であることを拒んだのです。

3.イエス様は聞き従わない人を見捨てたか

イエス様はたとえ話の中でファリサイ派の人々に向かって言われます。「わたしには、この囲いに入っていない他の羊もいる。その羊をも導かなければならない(10:16)」。
その上で、ユダヤ人たちに向けて答えられた「あなたたちは信じない」「私の羊ではないからである」という絶望的な言葉の裏側には、だからこそあなたがたにも信じてほしい、神様との関係が回復されてほしいのだと呼びかけておられる、イエス様の、神様の愛にあふれた思いが込められているのだと思います。
なぜならそこには絶えず神様の側からの「わたしは言ったが」「業によって証をしたが」という呼びかけがあるからです。

4.羊飼いと羊の関係

ヨハネ福音書において、羊飼いと羊のように、神様を信じることは神様と関係を持つこととして表現されています。
関係は一方が他方を強制することはできません。神様は「わたしは彼らを知っており」、羊は「わたしの声を聞き分け」、「従う」(10:27)という相互の応答関係こそが、信じるということであるのだと言うのです。
それは既になされている神様からの呼びかけを、私たちが日々の中にある出来事から聞き取り、信じていくことに他なりません。
そうして私たちが神様の呼びかけに応えるとき、「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」という揺るがない約束を与えてくださるのです。

5.羊飼いイエス

そのような神様と私たちとの関係性をあらわすしるしが、洗礼と呼ばれるものです。
もちろん、洗礼を受けたとしても時にはユダヤ人たちにように神様から離れてしまうことも起こります。しかしだからこそ洗礼は、私たちに与えられた揺るがない約束を思い出させる「しるし(sign)」となるのです。
イエス様は「わたしはよい羊飼いである(10:7)」と言われました。
私たち一人ひとりもそのしるしを通して、イエス・キリストを通して神様から恵み深い約束が与えられていることを思い起こしたいのです。
そしてその約束のゆえに、羊である私たちは、羊飼いであるイエス様の御言葉に、聞き従ってまいりたいと思います。