──ルカ福音書24章13-35節
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1.目をさえぎっているもの
キリストが復活した、という言葉を婦人たちから聞き、墓を見に行ってイエス様の遺体がなかったことを確認していながらも、二人の弟子たちにとって、それ以上の意味を持ってはいません。彼らがイエス様について語っているとき、そのすべての言葉で過去形が使われています。弟子たちの中では、復活して今、生きておられるイエス様よりも、十字架にかかっていかれたイエス様ばかりが思い起こされているのです。
このことは、復活して生きておられるキリストが、自分にとってどのようなかかわりがあるのかという実感が持てないでいる、ということなのだと思います。
それゆえ、復活のキリストが彼らと共に歩き始め、会話を交わしてなお気付けない、彼らの目をさえぎっているものとは、過去のキリストの姿に囚われた彼らの心であったのです。
2.神様は今ここに
天使は婦人たちに、「イエスは生きておられる」と語り、婦人たちはそれを弟子たちに伝えていきました。私たちもまた、弟子たちが婦人たちから聞いたように聖書からこの言葉を聞くとき、どれだけ実感をもって受け取ることができるでしょうか。
確かに、私たちは日々の中に起こることを通して神様の働きを聞き取ることがあります。
けれどもそれは今この瞬間に働く神様の姿よりも、過去を振り返り、そこに働いておられた神様の姿を見出すことのほうが、多いのではないでしょうか。
今、復活されたキリストが私たちと共におられることをその瞬間とは、いったいどのようなときであるのでしょう。
3.目が開かれる
エマオへの途上と呼ばれて親しまれてきたこの箇所を通して、弟子たちの目が開かれていくことを通して、復活のキリストが今、生きて関わっておられることを弟子たちが知ることが表されています。キリストは二つのことを通して弟子たちに関わっていかれました。それは、聖書の説き明かしであり、聖餐を思い起こさせるパン裂きの行為によってでした。
弟子たちは十字架の死と空の墓について知っていました。
しかしそれは出来事として知っていただけであり、自分たちにとってどのような意味を持つかと考えるまで至ってはいません。
だからこそキリストは「聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」のです。このことを通してキリストは、弟子たちが経験した出来事と、聖書のみ言葉とを結び合わせる導き手となってくださったのです。
さらには共に食事の中で行われた聖餐の行為を通して、それが見えるものとして示されていったのです。
4.いま、ここに
宗教改革者マルティン・ルターは、聖餐を「見えるみ言葉」と呼びました。それは聖餐が「これはわたしのからだである」「わたしの血である」というみ言葉を通して、キリストがパンとぶどう酒に「いま、ここに」来られる儀式であるからです。
キリストはこれを最後の晩餐の際、そして今日の箇所において弟子たちの前で行うことによって、み言葉の説き明かしによるだけではなく、彼らの過去の中に生きているキリストを、今目の前でパンを裂くその人へと結び付けていったのです。
5.心が燃やされる言葉
私たちが日々の中に神様のお働きを見つけるとき、それは私たちの現実がみ言葉と結び合わされるときであるのだと思います。そしてそのすべてがキリストと共に分かち合われる場所こそが聖餐の交わりであることを、キリストは示しておられます。だから私たちは教会に、礼拝に集うのです。
み言葉であるキリストが私たちのすべてを神様と結び付けてくださるとき、そのみ言葉は、私たちの心を燃やすものとなるのです。
弟子たちが心燃えてエルサレムへと再び帰っていったように、私たちと今、共に生き、共に歩んでくださるキリストを、このみ言葉と礼拝、そして聖餐を通して感じてまいりたいと思うのです。