2019年5月23日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

──ヨハネ福音書13章31-35節

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1.わたしがあなたがたを愛したように

「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉が聖書にはあります。この教えはユダヤ人たちがすでに持っている律法の中に記されているものであり、またイエス様ご自身も最も重要な掟として選んでおられました。
しかしこの言葉だけが独り歩きすると、私たちの愛は、自分がして(されて)好きなこと(もの)を他者に押し付ける、自分本位な愛になってしまうこともあります。
イエス様は弟子たちに対して新しい掟を与えられました。それは「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」というものでした。
この掟の「新しさ」は「わたしがあなたがたを愛したように」という点であるのだと思います。

2.イエス様の愛し方

イエス様が人々に関わっていかれるとき、人々を見て「深く憐れまれた」という表現がたびたびでてきます。この元の言葉の意味は「はらわたがよじれるほどの痛み」というギリシャ語から来ています。イエス様は人々の苦しみを自分のものとして受け止めていく、そのような関わりをもっていかれました。
その人自身を知り、それを自分のものとして受け止めて、関わっていくこと。自分本位ではなく他者を中心に置いた関わりこそが、イエス様の愛のかたちであったのです。

3.自分の力でこの掟は守れるか

この掟を守るために、私たちが他者を中心に置いた関わりを持とうとするときには、まず私たちはその人を知ることから始めなければならないことに気が付くと思います。
けれどもこの人のことは何でも知っている、という関係の方がいたとしても、その人との関わりのなかで、全くの善意でしたことが誤解を生んだり、傷つけてしまうことも起こりえます。
その意味において、私たちが私たちの力だけで誰かを愛することには限界があるのです。
この直後に記されている、ペトロが「あなたのためなら命を捨てます」とまで誓った言葉が、現実には逃げ出してしまったという出来事からもそれがわかります。

4.愛を示す十字架

この場面はイエス様がユダに裏切られ、十字架にかけられていく前の晩の出来事でした。
裏切っていくユダも、そして十字架の前に散り散りに逃げ去ってしまう弟子たちも、イエス様は引き止めようとはしませんでした。私たち人間が持つ愛の限界をも知っておられたからです。だからこそ彼らを赦されたのです。十字架を通してキリストはその愛を示されたのです。

5.神様の愛を中心に置く

キリストが十字架におかかりになったあとの弟子たちのために、つまりイエス・キリストの言葉を信じるすべての人々のために、この新しい掟は与えられています。
この掟を守るためには、私たちはまず神様が私たちをどのように愛してくださったのかということに目を向けなければなりません。愛されていることを通して、愛することを学ぶことができるからです。そして本当の愛とは、神様のところにしかないからです。
私たちは愛の限界を持っているがゆえに、それをそのままに行っていくことはできません。けれども私たちが誰かを愛そうとするとき、わたしがあなたを愛する、ではなく、神様があなたを愛しておられる、ということをその関わりの中心に置くことから始めたいのです。
私たちが愛の限界に躓くとき、それは誰かを赦せなかったり、傷つけてしまったりするときかもしれません。だからこそ私たちは神様の愛のゆえに赦されていることを通して誰かを赦し、傷つけてしまった誰かとの関係を修復するための勇気をいただいていきたいのです。
そのような私たちの姿を通して、今なお生きるイエス・キリストの姿が顕されていくのです。