そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。
──ルカ福音書7章36-50節
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1.とんでもないこと
罪深い女と呼ばれている女性が、イエス様の足を涙で濡らし、髪をほどいてその足をぬぐい、香油を塗っています。当時のイスラエルにおいて女性がそのような行為をすることは、男性を誘惑する行為と取られてもおかしくないものでありました。また彼女が「罪深い女」と呼ばれていることからも、彼女が遊女のような仕事をしていたことがほのめかされています。律法を守ることが第一だと考えていたファリサイ派の人々にとって、彼女のふるまいはとんでもないことであったに違いありません。律法は彼女を罪と定めているからです。それゆえ、彼女のするがままにしておられるイエスもまた、預言者ではないとシモンは心の中で断定していったのでした。
2.罪の赦しを信じる信仰
彼女が遊女であったのだとしたら、生きるために罪を犯さなければならず、そして自らの罪を彼女自身が一番よく理解をしていたはずです。そしてその彼女を、律法のゆえに蔑むことはあれど、誰も助けることはしなかったのだと思います。しかしそこに、イエス様がやってこられました。
イエス様が罪人と共に食事をし、また中風の人の罪を赦したお方であることは、彼女も知っていたことでしょう。唯一自分の罪を赦し、ありのままの自分を受け入れてくださると信じられる方、それが、彼女にとってのイエス様であったのです。
罪の赦しに対する喜びから行われた、彼女の愛に溢れたもてなしを、イエス様が拒まれるはずがありませんでした。
それゆえ、「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」という言葉には、罪の赦しと、その愛の関わりとがはっきりと示されていくのです。
3.愛へと導くために
ファリサイ派のシモンにとって、この言葉はどのように響いたのでしょうか。きっと彼はこれまで、罪深い女と呼ばれた彼女とは真逆に、出来る限り罪を犯さず正しく生きることを努力してきたのかもしれません。自分が間違うことが少ないために、他者の間違いをゆるすことができなくなって、ついには神様ですら自分の正しさに照らして、断罪をしてしまうのです。
イエス様のこの言葉は、シモン自身にも自分の罪を見つめ、それが赦されていることを知ってほしい、そしてそれゆえに愛に生きてほしいという願いのゆえに「あなたに言いたいことがある」と語り始められたのだと思うのです。
4.すべてを受け止めてくださる
イエス様はシモンをゆるしと愛に導きこそすれ、裁くことはなさいませんでした。それは、罪人と呼ばれていた彼女と同じように、シモンをも愛しておられたからだと思います。わたしたちもまた、もしかしたら罪人と呼ばれた彼女のように、他者との関係がうまくいかず、誰からも認められない立場に追いやられることがあるかもしれません。逆にシモンのように、自分の正しさのゆえに、誰かを悪に定めて蔑んでしまうことがあるかもしれません。
だからこそイエス様は、そのような私たちの罪が思い起こされること、そのような私たちの全てを受け止めてくださる神様がおられることを、聖書を通して語ってくださるのだと思います。
5.安心していきなさい
最後にイエス様は彼女に言っています。「あなたの罪は赦された」
「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。
私たちが罪の赦しを信じる時、そこに赦しは与えられていくのです。だからこそ彼女はイエス様と出会ったときすでに赦され、香油の入った壺を用意し、愛のもてなしのためにイエス様のところへやってきているのです。
そのような愛のゆえに、赦される喜びはより一層与えられていくのです。
私たちもそのような神様との関わりによって与えられた喜びと愛を携え、平安のうちに過ごしてまいりたいと思います。