2019年7月12日金曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。


──ルカ福音書9章18-26節

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1.最も短い信仰告白

今日の箇所の中でイエス様が「わたしを何者だと思うか」と問われたことに対して、ペトロは「神からのメシアです。」と返しています。
メシアという言葉は元はヘブライ語で、ギリシャ語の原文ではキリストという言葉が使われています。どちらも「救い主」という意味の言葉です。
ですから「イエス・キリスト」という言葉は本来、それだけで「イエス様は救い主です」という信仰告白の言葉であるのです。
人々はイエス様のことを預言者やエリヤの再来であると見ていましたが、ペトロはまさにここで、正しい信仰告白の言葉を選んだのです。
しかしイエス様はそれを「戒め、このことをだれにも話さないように命じ」ました。

2.ダビデ王の再来

ペトロの信仰告白は全てのキリスト者が信仰告白をする言葉と何も変わりません。
彼は確かにイエス様を信じていました。
しかしこのときの彼にとってイエス様とは何者であるかというと、イスラエル王国が最も栄えたダビデ王の再来を見ていたのだと思います。
だからこそ弟子たちは再三にわたる死と復活の予告を受け入れず、それどころか「誰が一番偉いのか」というイエス様の後継者を議論している(9:46-)のです。

3.日々、継続

イエス様が救い主となるためには、十字架の死と復活が不可欠でした。だからイエス様は、従う弟子たちに対してもこのように言われたのです。
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
一見すると、弟子として従うことは「イエス様と同じように十字架で命を捨てる」ことだ、と捉えられるかもしれません。
しかしルカだけはここで、「日々」という言葉を入れています。
これによって、十字架を背負って従うこととは、日々継続してイエス様に従い続けることであると語られているのです。

4.十字架を背負う

私たちの十字架とは何でしょうか。十字架とは罪を犯した者がかかる極刑です。
私たちがそれを背負うこととは、私たち自身の罪を、日々、考え続けることを意味しています。
イエス様はどのようなことがあろうとも、全ての人を愛し抜いていかれました。イエス様に反抗する人々をも、神の愛に導こうとしておられました。
私たちはそのように誰かを愛することが出来るでしょうか。
自分の思いを捨て、誰かのために動くことが出来ているでしょうか。
できない私たちがいるのだとしたら、その罪を見つめ、神様にそのことを告白することが、出来ているでしょうか。
このようにして日々、私たちは罪の告白と、愛の行いとに、イエス様に従い続けることができているでしょうか。

5.イエス・キリスト

あなたはわたしを何者だというのか、という問いに対する答えは、私たちにも問いかけられています。
その答えは、私たちがイエス様をどのように見ているのか、ということが答えであります。
私たちもペトロのように、私たちをただ全肯定してくれる都合のいいイエス様を作り上げては、いないでしょうか。
だからこそ神様はイエス・キリストの十字架を通して、そのような私たちの罪を赦してくださいました。
そしてなおも罪のゆえに私たちが抱えきれないほど重い十字架を、共に担ってくださっているのです。
私たちが自らの罪を、十字架を思い起こすときにこそ、本当の意味での「イエス・キリスト」十字架と復活によって私たちの救い主となられた、イエス様が見えてくるのです。