2019年7月19日金曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。イエスは振り向いて二人を戒められた。そして、一行は別の村に行った。
一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

──ルカ福音書9章51-62節

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1.三人の弟子志願者たち

イエス様の弟子になろうとしてやってきた人々がいました。
しかしその中で、弟子として従った、と記されている人は一人もいません。
たとえば二人目の人はイエス様に招かれながらも「まず、父を葬りに行かせてください」と断り、三人目の人は、従いますと言いながらも「まず、家族にお別れを言わせてください」と言うのです。
ここで彼らにイエス様が語っている言葉はとても厳しいものに聞こえます。
私たちがこのような言葉を聞くとき、イエス様の弟子となるのはなんと難しいことだろうと思われるかもしれません。
現実に当てはめれば、教会外のあらゆることにまさって、教会の働きを優先すべきだ、とも聞こえてしまうからです。
果たしてイエス様はそのようなことを、私たちに臨んでおられるのでしょうか?

2.弟子として従うこと

イエス様は、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」と言われています。しかしイエス様は、親を葬ることをないがしろにされたわけではありません。「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と続けておられるからです。
弟子の招きを受けた彼が、父親の葬儀から離れられないことも、イエス様はよくわかっておられたはずです。
ここで彼が、葬儀の準備をほかの人に任せ、父親の魂を愛をもって御国へと招いてくださる神様がおられることを語ることこそ、イエス様の弟子として従う、ということであるのだと言われているのです。

3.「まず、」が私たちを躓かせる

けれども彼はイエス様の招きに応えてはいません。
彼の心境は、三人目の弟子志願者と同じ理由であったのかもしれません。三人目の彼は一度は「従います」と言いながら、家族に別れを告げたいという自分の思いを優先するのです。
イエス様は一人ひとりの日常を否定されたわけではありません。
日々の中で彼らが何かを判断したり、何かを行うとき、そこにおいて「まず、」と神様を二の次にしてしまう、その心の在り方を、厳しく戒められているのです。
弟子たちもまた、そうでした。イエス様の思いよりも、イエス様を受け入れなかったサマリア人たちに滅びを願う、自分の思いを優先しています。
イエス様を拒絶し、反抗する人々をそれでもイエス様が愛されていたことは、十字架に示されています。
しかし、イエス様の思いよりも自分の思いを優先するとき、イエス様の愛はうまく受け取れなくなっていくのです。
三人の弟子志願者たちにとって、イエス様の愛ある招きが、挫折になっていったように。

4.中心に神様を置く

私たちが主の弟子として生き、イエス様に従っていくこととは、私たちが自分の日常を犠牲にして、教会の働きだけに尽くすことではありません。
私たちが日々の中にいつでも神様を中心に置くことです。
神様なら、イエス様なら、どう思い、どのようにしていくだろうかと、いつでも神様の思い、神様の愛を私たちの中心に置き続けることこそが、私たちに求められていることであるのだと思います。
教会は、イエス様は、私たち一人一人の日常を否定しません。むしろ教会は、日々の中に生きておられる神様を思い起こし、神様を証しする場所だからです。

5.主の弟子として

それでも、神様が二の次になってしまう私たちであることを、神様はよくご存じです。だから、私たちは聖書を開くたびに、私たちの中心に神様を置きましょう。神様が、イエス様がどのように人々と関わられたのかということを、私たちは聖書から聞いてまいりましょう。
そしてわたしたちも同じように、愛の行いへと押し出されていきたいのです。
それが、主の弟子として歩むことの第一歩であるからです。