2019年8月29日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」


──ルカ福音書13章22-30節

† † †

1.全ての人は救われない?

「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」とイエス様に問う人がいました。私たちなら、この問いに対してどのように答えるでしょうか。
誰もが「全ての人が救われる」と答えたくなるのではないかと思います。
キリスト教の葬儀では「わたしを信じる者は死んでも生きる」とイエス様が語ってくださっている箇所が多く読まれます。また、たとえ信仰に入らずに天に召された人であっても、信仰告白の言葉にあるように、イエス様は「陰府に降り」福音を告げ知らせてくださった、と私たちは信じているからです。
しかしイエス様は彼の質問に「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」と厳しい答えを返されました。
神の国に入れない人がいる、ということをはっきりと語っておられるのです。

2.投げ出される人々がいる

この戸口とは神の国に入るためのドアであり、家の主人は神様です。
神の国に入れなかった人々は「私たちは御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです」と弁明しています。
信仰を持っていない人々であるならまだしも、どうやら彼らはキリストの言葉を聞き、神の国と言う救いを求めて戸口までやってきている信仰者のように見えます。
けれども彼らは神様から「お前たちのことは知らない」と、当時の破門宣告に用いられた言葉を言い渡され、「不義を行う者ども」とすら言われています。
彼らは閉められた戸口の外側で叫んでいます。「外に投げ出された」のです。
神様は、自分の意にそぐわない者を神の国から追い出すようなお方なのでしょうか。神は愛であると聖書が語っていることと、矛盾しているように思えるかもしれません。

3.分裂を乗り越える力

キリストは先週の箇所で、御言葉によってわたしたちに平和ではなく分裂をもたらすために来たと言われました(ルカ12章49-53節)。
それは、私たちの罪が明らかにされ、十字架によって赦され、愛の業へと私たちを押し出していくためでした。
その赦しを受けているからこそ、私たちは罪によって挫折してしまう愛のわざに、従事し続けていくことが出来るのです。
神の国の戸口から外に投げ出された彼らの言葉を見てみましょう。
彼らは、御言葉を受け、キリストと共に過ごしました。しかし、彼らは御言葉に従い、自らの罪に対立し、愛のわざを行ったとは言ってはいないのです。

4.神の国を放棄する罪

私たちがキリストの愛の業を担い続けること、罪を見つめ続けることは誰にとっても最も苦しい十字架の道です。
できることなら誰もそんなことはしたいと思わないでしょう。
したくないけど、救われたいと思う大きな罪が、私たちの中にあるのです。
自らの罪を見つめることなく、愛のわざを行うことなく、自分のみが恵みを受けて救われたような気になっている、そのような人々は、神が差し出した十字架の赦しと愛を受け取ってはいないのです。

5.今、招きに応える

神様が十字架の道の先に、私たちのための救いを用意してくださっていること、滅びではなく復活と永遠の命を約束があることは、全く揺るぎません。
しかし私たちの罪が、その約束を無にし、滅びへと歩ませるのです。
このような神の国への招きは、キリストの御言葉と十字架によって既に私たちに約束され、提示されています。
私たちが自らの罪を悔い改め、愛のわざにチャレンジし続けることこそ、神の国への招きを受けるということなのです。
私たちは今、全ての人を救いたいと願う、神様の愛に満ちたその招きを受けて参りたいと思います。恵みと喜びを分かち合い、赦しと愛をもって接し、キリストと共に生きる、そのような地上の歩みを、今、始めてまいりたいと思います。