2019年9月5日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」


──ルカ福音書14章7-14節

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1.あなたは誰を招くのか

当時のイスラエルにおいて、食事の席は一種の社会的な地位を表すものであったと言われています。
人々はお金持ちや高い地位にいる人々におもねり、食事に招きました。彼らとの関係を良く保ち、利益を得るためです。
当たり前に行われていたこのような行為は、同時に貧しい人々や給仕をする奴隷たちに対しての差別を生んでいただろうと思います。
イエス様は食事に招かれた人々に、すすんで末席に座ることによって、同席する人々の間で面目を施すほうがよいのであると言われます。
しかしイエス様はここで、差別的な社会の中でうまくやっていくためのノウハウを語っておられるのではありません。
なぜなら人々を招く側の人々に向けて「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。」と言われているからです。

2.面目丸つぶれのイエス様

ルカだけでなくマタイやマルコの福音書でも、ファリサイ派の人々から「なぜあなたは罪びとと一緒に食事をするのか」と言われるイエス様が記されています。
この問いかけは、多くの人々にとっても同様の疑問であったに違いありません。
罪人や社会からのけ者にされている人々と共に食事をするイエス様は“面目丸つぶれ”の人であったでしょう。
しかしイエス様はそんな人々に対する面目など、ちっとも惜しくはなかったのだと思います。
今日の箇所で、人々からもらう面目よりも、神様から報いを受けることのほうが大事であると語っておられるからです。

3.それは誰の面目か

「面目」と訳されているギリシャ語は「栄光」とも訳される言葉です。
イエス様が言っておられる「面目」は、人々に対する面目ではなく、神様の「栄光」のことです。
その栄光を人々の間にあらわし、報いを受けるようにと勧めておられるのです。
返礼もできないような貧しい人々の地位まで自らへりくだる謙虚さは、神様の御心がかなうようにと願う心から生まれるものなのです。
そしてそのような人に、神様は正しい者が復活するときの報い──神の国へと招き入れてくださるのです。

4.関係の中へと押し出すみ言葉

神様のみ言葉はいつだって、私たちを他者との関係の中に押し出していきます。
他者は、神様かもしれませんし、私たちのすぐ隣にいる人かもしれません。
その人との関係のうちに、神の国は来るのです。なぜならイエス様は「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ(ルカ17:21)」と言っておられるからです。
「神の国の福音を告げ知らせなければならない(ルカ4:43)」、と言ってキリストは宣教を始められました。
神の国は、私たちの死後まで来ないわけではありません。私たちが生きて関わる今ここに、くるかもしれないのです。

5.神の国への招きのわざ

私たちはこの数週間のみ言葉を通して、愛のわざへと押し出そうとされる御心を聞きとったのではないでしょうか。
神様はみ言葉を聞き押し出されていく私たちの愛のわざを、神様のみ心をあらわすものとして、そして神の国への招きのわざとして、用いてくださるのです。
すべての人を等しく、神様はわたしたちを食卓へと招いてくださいます。
そこには差別はありません。愛があります。私たちはそのことを知っています。私たちは招きを受け、また招きを担う者として、一人でも多くの人々に、この福音を告げ知らせてまいりたいと思います。
その福音、イエス・キリストは、「きのうも今日も、また永遠に変わることのない方(ヘブライ13:8)」であるのです。