2019年9月12日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

──ルカ14章25-33節

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1.わたしの弟子ではありえない

弟子にしてもらおうとやってきた大勢の群衆に対して、イエス様は「~でなければわたしの弟子ではありえない」、と条件を三つ、語られました。
これから洗礼を受けてイエス様の弟子として歩みだそうと思っている人、あるいはすでに洗礼を受けてみ言葉を聞く人にとっても、この言葉は心に突き刺さってくるように聞こえるのではないでしょうか。
いったい誰が条件を満たし、弟子足りえる存在であり得るだろうかと思うかもしれません。

2.神様の思いが一番

一つ目の条件を見てみると、家族と自分の命を憎まないなら、わたしの弟子ではありえない、とイエス様は言っています。
家族を憎むという条件は、分け隔てなく等しく愛を行われるイエス様の姿とは相反するように思えます。
「命」という言葉に訳されているのは、原典では魂とも訳せる言葉です。魂とは私を私たらしめるものですから、実際には私たちの心や思いを指しています。
以前三人の弟子志願者たちが登場しましたが(ルカ9:57以下)、彼らは自分の思いを優先し、弟子になることは二の次に置いていました。
ここで家族と自分の命ですらも憎め、と言われることは、イエス様が彼らに言ったことと同じ意味を持っています。
それは、自分の思いよりも神様の思いを一番に考える、ということです。

3.罪の赦しとしての洗礼

神様の思いを一番に置くと、私たちの世界は変わります。
私たち自身がいかに神様の思いや愛に生きることの難しさ、神様の言葉の通りに生きられない苦しみがやってくるからです。
それを聖書では罪、と呼んでいます。
そして洗礼は、キリストが十字架にかかってくださったことで、私たちの罪が赦されたことを信じることを通して、キリストの弟子となる儀式です。
ここでイエス様が「自分の十字架を背負ってくる者でなければ」と二つ目の条件をあげられたのは、罪赦されても、私たちのうちに蔓延る罪がなくなるわけではないからです。
宗教改革者ルターは「キリスト者の生涯は絶えざる悔い改めである」と述べています。
私たちが神様の思いに挫折する、けれども悔い改めて従おうとする──十字架を背負って歩こうとするときにこそ、キリストの十字架によって成し遂げられた罪の赦しは、挫折した私たちを立ち上がらせる力になるのです。
それは、痛みには癒しを、苦しみには慰めを、対立には和解を、絶望には希望を与え、支え、信じ、愛し合う関係が、その先に約束されていることをイエス・キリストが示してくださったからです。

4.パートタイムの弟子ではいられない

主の弟子としての歩みを始める前に「まず、腰を据えて考える」ことをイエス様は二つのたとえを通して語られました。
洗礼は、一度受けたら取り消すことはできません。
塔を建てようとする彼は全財産を勘定することを求められます。それは、塔を建て始めれば後戻りはできないからです。
私たちも同じです。都合のいい時だけ、パートタイムのように弟子であることはできないのです。
あなたがこれから洗礼を受けようとするなら、あなたの罪についてじっと見つめる時があってよいと思います。
そうすれば、あなたに神様がどのように関わり、赦されて生きる喜びがあることに気づかされるからです。
そして恵み深くも既に主の弟子としての歩みを始めているのなら、必ず信仰的に挫折してしまうその時にこそ、再び歩み始めるときの道しるべとなる言葉でとなるのです。
どちらにせよ、私たちは弟子として歩むことについて、常に考え続けることになります。主の弟子としての私たちの歩みは、最期の条件にあるように、私たちに属しているもの──財産だけではない、心も、思いも、いのちも、すべて神様に明け渡すことからから、始まるからです。