2019年9月19日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」


──ルカ福音書15章1-10節

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1.ずるいじゃないかと彼は言う

「聞く耳のある者だけ聞きなさい(ルカ14:35b)」と言われてイエス様のところにやってきたのは、今日の聖書箇所の冒頭、徴税人や罪人たちでした。
それを見て、イエス様と一緒にいたファリサイ派の人々や律法学者たちは不平を言うのです。どうして彼らを受け入れ、食事まで一緒にするのか、と。
14章を通してイエス様が群衆たちに語ってきたことの中には、自らの罪を見つめ、全てを神様に委ねて十字架を背負ってついてくる者こそ弟子であると語られてきました。
ファリサイ派の人々にとって、自らは律法を遵守し、弟子として不足はないと自負していたのに対し、徴税人たちは律法も守らず、イエス様の言った弟子の条件など到底守ることのできない人々でした。
それなのに、ファリサイ派の人々と同じように徴税人たちをイエス様が受け入れていることが我慢ならなかったのだと思います。

2.たとえあなたが罪深くても

見失った一匹の羊は、他の羊よりも価値の高い羊であったわけではありません。もう一つのたとえ話のなかで失われているのが、価値の等しい銀貨10枚のうち一枚であることからも明らかです。
さらに言えば、一匹の羊が逃げ出さなければ、九十九匹の羊は野原に残されず、危険にさらされることもありませんでした。それでも羊飼いは、そのたった一匹の羊のために、探しに出かけるのです。
羊飼いである神様は、神様から離れてしまった罪人ですら、等しくかけがえのない存在として探し求めてくださるお方であることを、イエス様はたとえを用いて語っておられるのです。

3.罪深いからこそ

聞く耳を持つ者だけが聞きなさい、という厳しい言葉で締めくくられたイエス様の御言葉を受けてなお、従おうとした人々がいました。
それが罪人であろうとも彼らを等しく迎え入れたいという神様の思いを、イエス様はここで語っておられます。
さらに言えば、神様が彼らを等しく迎え入れようとするとき、自分には罪がないと思っているファリサイ派の人々よりも、自らの深い罪を自覚しながら、なお従おうと近づいてきた罪人や徴税人たちのほうがより多くの喜びを受けることになったのだと思います。
その喜びは、たとえの中で神様ご自身の喜びでもあることが語られています。
神様から遠く離れてしまった罪人を見つけるからこそ、人々を呼び集めて一緒に喜んでくださいと言わずにはいられない大きな喜びが生まれていく、という逆転が起こるのです。

4.共に喜ぼう

自分から神様から離れた罪深いわたしを、神様がわざわざ見つけてくれるはずがない。一匹だけはぐれてしまった罪深い羊──イエス様のところにやってきた罪人たちは、以前はきっとそう思っていたことでしょう。
しかし彼らは「聞く耳のある者は聞きなさい」という羊飼いの捜しまわる声に応えていきました。
罪に沈み、罪に迷う私たちを探し求めてくださるほどに、神様は私たちを愛してくださっています。なによりもそんな私たちを赦すために、神様は自分の独り子ですら犠牲にしてくださいました。
私たちはそのことを共に喜びたいと思うのです。

5.喜びの第一歩

イエス様は繰り返し、私たちの罪を明らかにされます。自分の十字架を背負って従いなさいと言われます。
けれどもそれは、私たちが正しい者かどうかを振り分けるためのものではありません。
神様の前に誰一人正しい者はいません。わたしたちはこれからも、何度でも罪に迷い、罪に沈むことがあるでしょう。
しかしそのようなあなたを見つけ出し、怒り裁くのではなく、喜んで連れ帰ってくださる神様がおられます。
だから私たちは、安心して迷いましょう。何度だって神様によって再び立たされ、絶え間ない罪との戦いへと踏み出してまいりましょう。
それこそが主の弟子として歩む、信仰の旅路であるのです。