2019年10月31日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。

──マタイ福音書5章1-6節

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1.塔の体験

マルティン・ルターは「神の義」という聖書の言葉を憎んでいました。
当時カトリック教会の修道士であった彼は、自分が神の義──神様の義しさに適うような人間でないことを誰よりも自覚していたからです。
教会の教えは、悪行を悔い改め、善行によって義しさを積み重ねるようにと勧めていました。
しかしどれだけ懺悔をし、善行を積み重ねても、自分は神の義しさには適わず罰されるしかない存在なのだと、ルターは悩んでいたのです。
ある時ルターは「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。(ローマ1:17)」という聖書の箇所に出会い、日夜考え続けることになりました。
そしてついには、キリストによってその神様の義しさがルターに与えられて「正しい者」とされている、そのことを信仰によって受け止めるからこそ、生かされる、救われるという福音が実現するのだ、とこの箇所を読み解くに至ったのでした。
これこそが「信仰義認」であり、宗教改革の始まりを告げる「塔の体験」と呼ばれる出来事でした。

2.悔い改めの中から

このようにして、信仰によって義とされる、神様の前に義しい者とされるという考え方を柱として、ルターは宗教改革と呼ばれる働きへと立たされていきました。
しかし今日、私たちはその結果だけではなく、ルター自身がそこに至るまでの道のりを思い起こしたいのです。
宗教改革は、彼がもし神様の義しさ、福音について悩まなかったら起こらなかったかもしれません。彼が深い悔い改めと悩みの中にあった時から、それは始まっていたと言えるのではないでしょうか。

3.神の乞食

ルターは悔い改めのことを、自己糾弾、自己憎悪という言葉で定義しました。
ルターがこれを悔い改めの定義としたのは、自分の意志を憎むことを通して、神様に心を向けるとき、私の意志の代わりに神様のご意思が入ってくる、ということを考えていたからです。
ルターは死の間際にこのように書き残しています。
「わたしは神の乞食である」と。
まさに彼が神様が与えてくださる救いに対して、できることなど何もない、神様の恵みを受け取ることしかできないという捉え方から出た言葉です。
善行も、償いもできないほど罪深い私たち──神様の前における貧しさを見つめることこそが救いの道なのであると、ルターは生涯を通して気付かされていったのだと思います。

4.神の御心は私の内に満ちる

今日の聖書箇所をもう一度読んでみたいと思います。
「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」
この「国」と訳されている言葉は、「支配」とも訳されるギリシャ語が使われています。天の国とは、神様の御支配、御心そのものであると言えると思います。
ルターが捉えていった通り、悔い改めを通して神の前には全く貧しい者であることを私たちが知る時、まさに「天の国」──「神様の御心」は「私たちのものとなる」のだと、今日の箇所を読むことが出来るのだと思います。

5.極限の貧しさの中にこそ

目に見える豊かさを手に入れたとしても、いつかはそれがすべて失われる日が来ます。いつ何時においても、私たちは神の前において極めて貧しい者であるのです。
しかしルターが「わたしは神の乞食である」と言ったように、深い悔い改めの先に、福音という名の真の豊かさが私達にもプレゼントされていることに気づかされていきたいのです。
私達のために十字架にかかり、復活し、永遠に共に生きて導いてくださるイエス・キリストという名の福音が、私達にプレゼントされているのです。
私達の地上の命が終わるとき、「私もまた神の乞食であった」と言えるような歩みを、日々の悔い改めを通して歩んでまいりたいと思います。