──マタイ福音書3章1-12節
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1.「悔い改めよ」と彼は叫んだ
粗末な格好と粗末な生活をし、人々から離れた荒れ野に住んでいたヨハネが「悔い改めよ」というメッセージを語ったことが、なぜエルサレム全土から人々が集まるほどの注目を浴びたのでしょうか。それは、そのようなヨハネの生き方や言葉こそが、心のどこかで人々が求めていたものであったからだと思います。
2.誰かに言ってほしかった
人々は「悔い改めに導く洗礼」を受けにヨハネの元へとやってきています。共にやってきたファリサイ派の人々は律法を守ることを第一に考えるあまりに、律法を守れない人を日常的に差別していました。
また、サドカイ派の人々は神殿で働くエリートとして権力に貪欲でした。
彼らの間で生きていた多くの人々もまた、裁かれない程度に律法を守り、差別にさらされている人々を見て見ぬふりをしていたのかもしれません。
律法を守ることが神様に正しく生きることだとはわかっているが、ファリサイ派の人々のように差別的にはなりたくない。かといって、差別にさらされている人々を助けるほどに自分は裕福でも余裕があるわけでもない。
でも、このままでいいんだろうか……。
そのようなモヤモヤとした人々の思いを大きく揺さぶったのが、まさにヨハネの言葉であったのです。
「今こそ救い主がやってきて、あなたを天国に連れていくときが近づいているのだ。だから、その救いにふさわしい生き方をしなさい」というヨハネの言葉は、そのような人々を悔い改めへと導く鋭い呼びかけとなっていったのです。
3.全ての方向に神様を見る
もし私たちが親しい人の中から、今日はこの人と過ごそう、と向く方向を選ぶように、今日は神様の方を向いて祈る時間を作ろう、と日常から離れることを悔い改めと呼んでいるのなら、私たちは一生悔い改めにふさわしい実をつけることはできないのだと思います。日常と神様の間で、悔い改める前の人々のように右往左往してしまうことになるからです。
しかし神様は私たちに、日常の関わりを投げ捨てて私のことだけを考えなさい、と言われたわけではありません。
むしろ神様は、イエス・キリストという一人の人間としてこの世に来られ、差別の中にあって奪われていた人と人との関わりを回復されたからです。
だからこそヨハネが語った「悔い改めにふさわしい実」とは、全ての人々との関わりの中に、神様との関わりを見出して生きることであるのです。
4.キリストなら
それは、誰かの言葉や行為を通して、キリストが私たちに何を語ろうとしておられるのかを聞き取っていくこと。誰かと関わるとき、キリストならどのように関わっていかれただろうかといつも思い起こすことです。先週の箇所の中でキリストが「目を覚ましていなさい(24:42)」と言われたように、神様の働きを見通す信仰の目を、いつでも開いてまいりたいのです。
私たちの目には見えずとも、神様は私たちのすべての関わりのうちに生きて働いておられます。それはこの世に人としてお生まれになり、今なお生きておられるイエス・キリストの姿にあらわされているのです。
そのキリストがこの世に来られるクリスマスに向けて、私たちも信仰の目を開く悔い改めの時を過ごしてまいりたいと思います。