2020年1月31日金曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。

──マタイ福音書4章12-23節

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1.神の支配が届かない地から

ヨハネが捕らえられたのは、当時ガリラヤを統治していたヘロデ・アンティパスによってでした。
キリストはなぜ、ヨハネが捕らえられたと聞いたにも関わらず、わざわざ危険なガリラヤから宣教の第一声をあげられたのでしょうか。
福音書記者であるマタイはこれをイザヤの預言から説明しようとしています。
イザヤが預言した時代、イスラエルはシリア・エフライム戦争の前後であったと言われています。
この戦いによってガリラヤはアッシリアを始めとした諸外国によって統治され続けるという歴史を歩みました。
それゆえユダヤの一地域でありながら「異邦人のガリラヤ」と呼ばれ、人々からは神様に顧みられない土地として見られるようになっていったのです。

2.あなたの心のガリラヤ

キリストはそのような地で敢えて「悔い改めよ、天の国は近づいた」と語っていったのです。
天の国という言葉は他の福音書における「神の国」と同じで、神様の支配がいきわたり、人々が神様の御心のままに生きている領域を指す言葉です。
人の権力による支配がはびこり、人々から神様から最も遠い土地と思われていたからこそ、キリストはそこで語り始められたのです。
思えば私たちも、神様のみ言葉や御心よりも、私たち自身の思いや現実を優先してしまうところを心のどこかで持っているのだと思います。それは私たちの心のガリラヤとも言うべき場所なのです。
私たちが神様には顔向けできないと思う心、ガリラヤの中心で、キリストは私たちに語るのです。
「あなたの中で一番暗いこの場所にこそ、天の国がやってくる。だから、もう一回神様のために、生きてみないか」と言ってくださっているのです。

3.誰のために生きるのか

キリストの最初の弟子は漁師たちでした。
キリストは彼らを弟子にしましたが、彼らの漁師としての働きを否定したわけではありませんでした。これまでも漁師であった彼らは、これからは神様の働きをする漁師として招かれているからです。
私たちがクリスチャンになること、キリストの弟子となって生きることも、同じです。
洗礼を受けても、私たちが現実に生きる中でやならなければならない仕事や日々の様々なことは変わったりしません。
そこで起こる変化とは、その働きを神様のためのものとする、そういう変化であるのだと思います。
私たちが生きる場所全てが、神様のために働く場所になるという変化が起こるということです。

4.何度でも悔い改めよう

キリストの弟子とされたペトロやアンデレたちですら、その後も完璧にキリストの言葉に従って歩んだわけではありませんでした。
この世の地位を得ようと話し合ったり、死ぬまでついていきます!と熱く語ったにも関わらず十字架を前に裏切ってしまう姿が記されていきます。
ですから、キリストに従うということは、弟子たちがそうであったように、いつでも完璧に御言葉を守るということではないのだと思います。
時には躓くことがあってよいのです。
自分の思いや願いを優先してしまうこと、出来る範囲で誰かを愛すること、そのような罪があることをご存知の上でキリストは弟子を選ばれたからです。
避けることが出来ないからこそ、キリストはそのような私たちの心のガリラヤに差し込む救いの光として、語り掛けてくださるのです。
「もう一回だけ、私と一緒にやり直してみないか。」

5.キリストに従って生きる

何度罪に陥っても、そのたびに何度でも悔い改めて、何度でもキリストの弟子として新しく歩みだしていく、これこそがキリストの弟子としての歩みであるのだと思います。
今日のみ言葉から私たちも、その新しい一歩へと踏み出していきたいのです。
キリストに招かれ、躓いても信仰によって再び立たされる私たちに、キリストは手を差し伸べ、招いてくださっているからです。
「わたしについてきなさい」と。