2020年2月7日金曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」


──マタイ福音書5章1-12節

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1.山上の説教が始まる

マタイ福音書の5章から7章にかけてはキリストが山に登り、群衆たちに対して天の国に関する長い説き明かしをすることから「山上の説教」と呼ばれています。その冒頭の部分が、今日の箇所です。
けれどもそこに語られている言葉を読むと、私たちは素直にそれを受け入れられないかもしれません。
「心の貧しい人」「悲しむ人々」「飢え渇く人々」は「幸いである」と言われているからです。

2.神様との関係のうちに

マタイ福音書の中で多用されるものに「枠構造」というものがあります。
「心の貧しい人」と「義のために迫害される人」はどちらも同じく「天の国はその人たちのものである」と続けられています。
このように同じフレーズを枠として配置し、その間で語られているもののテーマを定める役割を持たせるのです。
つまり「悲しむ人々」が「慰められる」こと、「柔和な人々」が「地を受け継ぐ」こと、「義に飢え渇く人々」が「満たされる」ことなどは、一貫して「天の国」における出来事として捉えてよいでしょう。
この「天の国」とは「神様のご支配」をあらわす言葉で、「人々に神様の心がいきわたっている」領域のことを指しています。
それゆえ、この「幸い」は、一般的な「幸運/幸福」とは違い、神様と私たちとの関係の中にこそ起こる「幸い」なのです。

3.「幸い」とは

お年を召したある方が、愛称聖句としてこの箇所を挙げられていました。
どうしてこの箇所を選ばれたのですかと聞いたところ、このような答えが返ってきました。
「私は年を取ってから洗礼を受けましたが、神様を信じる前よりもあとのほうが、苦しかったり辛かったりすることが増えました。若いころにいろんな人に迷惑をかけたことや、優しくできなかったりしたことを神様に悔いることが多くなったからです。だからこそ、この幸いについての箇所はとても身に染みるのです」と言われていました。
この言葉を聞いて気づかされたのは、与えられる「幸い」とは私たちが考えるポジティブなもの──「慰め」や「満たされること」、「憐み」といったものだけではないということです。

4.幸福なるかな

神様との関わりを持つとき、神様は私たちの心の貧しさを露にされ、また過去に犯した愛のない振舞いを思い起こし、悲しまれます。私たちもまたそれを悔い、悲しみに満たされることがあります。
神様との関わり、信仰によってもたらされるものは、必ずしも私たちの考える「幸せ」なものばかりではないのだと思います。
文語訳の聖書を開いてみると、原点のギリシャ語に近い形の語順となっていて、キリストが人々に語りたかったポイントが見えてきます。
「イエス 口をひらき、教えて言いたまわん、
 幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり。
 幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん
 幸福なるかな、……。」このように続いていきます。
どのような状況の中にあったとしても、「幸福なるかな」──あなたは幸いなのだ、神様との関係の中にある限り、そのことだけは揺るがないのだと、確言してくださっているのです。
揺らぐことのない神様の言葉に支えられて、どのようなことも「さいわい」と受け止めることのできる日々へと、踏み出してまいりたいと思います。