2020年2月21日金曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」
 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」
「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」

──マタイ福音書5章21-37節

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1.律法を完成するために

キリストは今日の箇所の直前に「わたしが来たのは律法を完成するためである。(5:17)」と言われた上で今日の箇所を語り始められました。
しかしどうでしょうか、「殺すな」という律法を引用したあとに続けられていく律法は、一層厳しい言葉として聞こえてくるのではないでしょうか。
「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」
誰にも腹を立てず、またこのような言葉を吐かずに生きることは誰にとっても難しいばかりでなく、ほとんど無理だと思います。
このような律法の強化とも取れることが、いったいなぜ「完成」なのでしょうか。

2.抜け穴を見つける人の性

「殺すな」という律法は、神様からモーセに十戒を通して与えられたものでした。しかし「人を殺した者は裁きを受ける」とそれに付記したのは人々によってでした。
旧約聖書の長い歴史の中で人々は、神様から与えられた律法を自分の都合の良いように解釈し、裁きの範囲を限定することで自分が裁きの対象にならないようにしたのです。
旧約聖書には神様から与えられた律法の抜け穴を探るような人々の姿が多く記されているのです。
キリストが語ったのは、単なる裁きの回復、律法の本来の厳しさではありません。
神様が初めに一言「殺すな」と定められた時、いったいどのような心で私たちにそのようなルールを与えたのかということに目を向けたいのです。

3.厳しさの中に愛を見る

「廊下を走ってはいけません」と小学校の時、先生に言われました。
しかしそういわれると小学生は早歩きをして「走ってません」と言います。
「早歩きでもいけません」というと、次はスキップで走り出すものです。
このことは律法の抜け穴を探り、神様に従おうとしなかった旧約聖書の人々に良く似ているのではないでしょうか。
先生はなぜ「廊下を走ってはいけません」と言うのでしょうか。
誰かとぶつかってケガをしないようにするためです。
単に走ることが悪いのではありません。誰かをケガさせたり、また滑って自分自身が転んでケガしたりしてしまうことが危ないのです。先生はそうならないようにと願って厳しく言うのです。
──身体も、心も、私たち一人ひとりの存在すべてが、誰かに傷つけられること、損なわれること、殺されることがないように。
そのように願っておられる神様の愛が、律法の「殺すな」の一言の中には込められていたのだと思います。
そのことを思い起こしてほしくて、「なぜ律法を厳しくするのが完成なのか」という問いをキリストは私たちに与えられているのではないでしょうか。

4.言葉の向こう側に心を見る

キリストは厳しい裁きの言葉を語られます。
裁きを受けて地獄に落ちるくらいなら、悪い体の一部を捨て去ってしまえとすら言います。その厳しさは神様の愛を語ると同時に、私たちの弱さをも表しているのです。
私たちが今日のキリストの言葉を聞いたとき、どのようにそれを読んだでしょうか。字面ばかりを追い、「こんなの守れるはずがない」と聞かなかったことにはしていないでしょうか。
ファリサイ派の人々は神様から与えられた律法を文字通りに守ることを一番大切にしていました。それゆえに、守れない人々への愛に欠け、差別を生みました。
キリストの言葉を聞く人々も同じです。キリストの言葉を文字通りに守ればよい、と考えるとき、私たちはファリサイ派の人々と同じ罪に陥ります。
キリストが厳しさの裏で伝えたかった神様の愛がなければ、律法は完成しないのです。
律法の完成、それは、他者の思いに寄り添い、裁きあうことのない関係を保つこと。どちらかに不満があればきちんと和解しあうこと。
そのような人と人との関係を通して、律法を定められた神様の御心──愛に生きるという律法の完成を、キリストは願っておられるのです。