2021年2月3日水曜日

今週の黙想文(創3:9)

主なる神はアダムを呼ばれた。
「どこにいるのか。」
──創世記3章9節


† † †

神様があなたをいつも見ているよ、という言葉が使われるのは、たとえば子どもが悪いことをしていて、それを諭すときかもしれません。
しかしこのことは一つの真理を表しているように思います。
私たちは誰しも大なり小なり、神様に素直に顔向けできない罪を抱えているということです。
神様との約束を破って知恵の樹の実を食べてしまったアダムがしたように、私たちも神様の目から隠れようとするのです。

 アダムが隠れたエデンの園のように、私たちの周りには色んな欲望を満たしてくれる樹が生い茂っています。それが私たちを探す神様の姿を遮ってしまいます。
しかし、神様はそのような私たちに尋ねられるのです。
「どこにいるのか」。
神様は私たちの居場所をいつも知っておられます。
それでもこのように言われるのは、私たちが自分で神様の前に出てきてほしいと願っておられるからです。

 キリストも私たちに神様の御前に進み出るようにと招かれました。
なぜなら私たちが神様の前に感じる負い目を十字架の上で赦してくださったからです。
もはや私たちはアダムのように裁かれはしません。
私たちが神様の呼びかけに応え、まっすぐに神様と向き合うとき、そこには全き恵みと救いの実を差し出す神様がおられるのです。

(20210131週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。