2024年2月21日水曜日

今週の黙想文(ルカ15:32)

お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。
いなくなっていたのに見つかったのだ。
祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。
──ルカによる福音書15章32節


† † †

放蕩息子のたとえと呼ばれるこのたとえ話の主人公は、放蕩息子だけではありません。
登場する分量は少なくとも、放蕩息子の兄と、父親にたとえられる神様とのやり取りには、ハッと気づかされるものがあります。
確かに、いつも父親に従って無駄遣いもせず、真面目に生きてきた兄の言い分も当たり前のように聞こえます。
しかしここで放蕩息子であった弟への兄の憤慨は、弟と自分を比べ、どちらがより報われるにふさわしいかと裁こうとしているからこそ生まれている気持ちなのです。
父親にたとえられている神様の「当たり前」は、このような比較によって報いるかどうかを決めるものではありません。
全財産を払っても買い戻すことのできない息子のいのちが今日まで失われることなく、悔い改めて帰ってきたというだけで、神様にとっては祝宴を開くに十分な喜びがあったのです。
神様が私たちに向ける「当たり前」は、誰かと比較されて与えられる相対評価の関わりではなく、かけがえのないあなたが何を感じ、どのような道を歩んできたのかに深く寄り添う、究極的に絶対評価の愛なのです。

(20240218週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。