2018年4月4日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~


安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。
若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

──マルコによる福音書16章1-8節

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キリストの復活を記念する復活祭、イースターが今年もやってきました。教会では「イースターおめでとうございます」という声が挨拶になります。けれども今日、選ばれている今日の福音書の箇所を読むと、簡単には「おめでとう」という言葉が出るような情景は記されていません。十字架にかけられ、葬られていったイエス・キリストの墓に向かった婦人たちは、復活の知らせを聞くと、喜ぶどころか恐れに満ちて、逃げ去っているからです。

現在の聖書にはこの箇所の後に「結び」として続きがありますが、初めて世に出されたマルコ福音書はこの箇所で終わっていたとされています。なんとも唐突な終わり方です。
なぜマルコはこのような終わり方で福音書を締めくくったのでしょう。

はじめに「神の子イエス・キリストの福音の初め(マルコ1:1)」として語られ始めたマルコ福音書は、その全編にわたって、弟子たちの不信仰、イエス・キリストへの無理解が繰り返し描かれています。
私たちもそうではないでしょうか。聖書が教えるように、いつも誰かに愛をもって接することのできない自分がいる。望んでもいないのに、誰かを傷つけてしまった。祈ることも、聖書を開くことも時間がなくてできない。でもしょうがないんだ、と申し訳ない気持ちを抱えながら、神様に背を向けて生きている私たちがいるのではないでしょうか。
それは2000年以上の昔から、ずっと変わらない私たちの本当の姿であることを、聖書は語っているのではないでしょうか。
だからこそ、マルコが描いている婦人たちの恐れとおののきは、主が復活されたという言葉に対して最もふさわしい反応になるのです。

けれども今日の箇所で復活のキリストを告知する若者は言っています。
「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』(16:7)」。
ガリラヤとは、弟子たちにとって、信仰の原点となる地です。最初の弟子であるペトロを召し出したのもそこでの出来事でした。

今や、十字架の前にすべての弟子たちが、すべての人々がそれぞれの形でキリストを裏切っていきました。そして様々な理由をつけて、神様から離れてしまっている私たちもまた、ここにいます。
そのような私たちに、キリストは告げるのです。

あなたと初めて出会ったあの場所から、もう一度、一緒に歩き出そう、と。

神様に正しい生き方なんて知らなかったあの日の出会いに戻ろう。また一緒に、初めから神様と一緒にやり直そう。キリストは御言葉に従っていくことの出来ない私たちを赦し、何度だって私たちを弟子として招くのだと言ってくださっているのです。
そしてそれこそが、マルコが最後に残した「神の子イエス・キリストの福音」への道標なのではないでしょうか。

これからの一週間、どうしてもあの人は赦せない、そう思う日があるかもしれない。自分のことだけで精一杯になって、誰かとぶつかってしまう日もあるかもしれない。
けれどもそんなあなたを愛してくださって、そのすべての苦しみを受け止めてくださる神様が、ここにいます。そんなあなたのために十字架に架かってくださったキリストが、復活されて、いつでもあなたと一緒に歩いてくださいます。

何度だって、私と一緒にやり直そう、と言ってくださる神様がいることをおぼえて、愛と喜びに満ちた一週間としていきましょう。