2018年5月2日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

──ヨハネによる福音書15章1-10節

† † †

便利な時代がやってきました。電車に乗ればほとんどの人がスマートフォンを使っています。それひとつで電話や電子メール、あるいはSNSを使って世界の誰とでも簡単にコミュニケーションをとることが出来るようになりました。けれども便利になった反面で、人と人との関係は昔よりも薄っぺらくなってしまったように感じられる方もおられるかもしれません。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」「わたしにつながっていなさい」とキリストは語ります。この「つながる」という言葉は、「とどまる」という意味を持った言葉でもあります。ですからキリストは「わたしの愛にとどまりなさい。」とも続けて言われるのです。
また「私の掟を守るなら、私の愛に留まっていることになる」と言われます。この掟とは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい(13:34)」というキリストが弟子たちに与えた新しい掟のことです。
このことから、キリストとつながっていること、キリストの愛にとどまることは、人と人とが互いに愛し合う関係の中にこそ起こってくるものであると、今日の聖書は語っているのです。

今日の福音書の箇所は、イエス・キリストが告別説教として弟子たちに語っている箇所です。弟子たちは主との別れに不安でいっぱいだったことでしょう。けれどもそのような弟子たちに、キリストは先んじて福音を語ってくださっているのではないでしょうか。

あなたがたの前からわたしはいなくなってしまうだろう。
十字架を前にして、あなたがたの誰もが挫折するだろう。
けれども大丈夫だ。あなたがたが互いに愛し合うところに、いつもわたしもつながっているのだ、とキリストは言ってくださっているのではないでしょうか。

そして私たちにもまた、同じように語り掛けられています。技術が進歩し、人と人とのつながりが薄れてしまっているこのような時代だからこそ、互いに愛し合い、愛によってキリストにつながっていくことの大切さを、この御言葉から聞き取ることが出来るのではないでしょうか。

今週一週間の中で、一日でもいい。愛する誰かのことを考えてみませんか。誰かに愛を伝えることを、してみませんか。
誰かを想って電話をしたり、ペンをとって手紙を書くのもいいかもしれません。何もすることが出来なくたって、誰かの為に、愛をもって、祈ってみるのもいいと思います。
私たちが誰かの為に愛を持って動こうとするとき、その行いを通して、私たち自身のなかにも愛が満たされていることを感じるのではないでしょうか。
そしてそれこそが、キリストが言っておられる、「愛によってつながること」ではないでしょうか。

生きることは、誰かとつながることです。誰かと共に喜びを分かち合い、悲しみを分け合い、愛をもって祈りあうことです。そのような私たちの姿は、きっとイエス・キリストがおられたあの日から変わっていないのではないでしょうか。
そのようなキリストの愛によって人と人とがつながる中にこそ、私たちのいのちが豊かに与えられることを覚えて、この一週間も過ごして行きたいと思います。