2018年5月9日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

──ヨハネによる福音書15章11-17節

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キリストは弟子たちに、そして私たちに聖書の言葉を通して「互いに愛し合いなさい」という掟を与えられました。私たちが互いに愛し合うその中にこそキリストにつながり、キリストの愛が私たちをつないでいくのだという福音を、先週のみことばから聞いてきました。
けれども私たちが互いに愛し合おうとするとき、周りには愛したくても愛せない人がいるかもしれません。自分すらも愛せないという難しさの中に立ち止まってしまうことだってあるかもしれません。
だからこそそのような私たちに向けて、キリストは先週のぶどうの木のたとえに続けて、この御言葉を語ってくださっているのだと思います。

キリストを十字架によって失う不安の中に弟子たちは留まっています。この後弟子たちは十字架を前にしてキリストを裏切り、逃げ去っていきました。主を失う私たちはこの先どうすればいいのだ。自分は十字架にかかりたくなんかない。弟子たちは終始自分のことに目を向けています。
けれどもキリストはここで十字架を「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言っておられ、弟子たちを「あなたがたはわたしの友である」と呼んでくださっています。この言葉から、キリストは弟子たちが持つ十字架の死の意味を、喪失の不安と悲しみではなく、弟子たちを友とし、愛へと結び付けています。
十字架の出来事によって、逃げ去ってしまう弟子たちは、キリストを友とはとても呼べない状態であったでしょう。けれどもキリストはそのような状態になってしまう弟子たちに対して、先んじて「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」と言ってくださっているのです。

あなたが何もできなくたって、誰も愛せなくたっていい。それでもあなたを友として愛しているのだ。キリストはそのように弟子たちに、そして私たち一人ひとりに愛をこめて言ってくださっているのではないでしょうか。
そのようなキリストの愛を私たちが受けるときにこそ、初めて私たちもまた、互いに愛する働きへと踏み出すことが出来るのではないかと思います。

先週、わたしたちは誰かに愛を伝えることが出来たでしょうか。誰かに手紙を書いたり、電話をしたり、愛をもって誰かのために祈れたでしょうか。
もしできなかったあなたへ。
そんなあなたに届けたいキリストのラブレターが、ここにあります。
誰かを愛することのできないあなたに、愛せない人がいるあなたに。キリストは十字架を通してあなたを愛してくださっています。キリストの愛をもって、私たちを愛の業へと押し出してくださっています。そのキリストの愛に満たされて、誰かを愛することのできる一週間へとしてまいりましょう。

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