2018年7月4日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。
ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。
イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。
イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。

 ──マルコによる福音書3章1-12節

† † †

先週の御言葉に引き続いて、安息日でのキリストとファリサイ派の人々との対立が福音書には記されています。
「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」とキリストは彼らに問いかけられています。
当時のファリサイ派の人々が読んでいた律法の註解書には、誰かが命の危機にさらされている場合には、安息日の規定よりも優先する、ということが書かれていました。
ですからキリストが問いかけたのが「許されているのは命を救うことか、殺すことか」だけであったのなら、ファリサイ派の人々も沈黙しなかったでしょう。命を救うことは赦されているのだと。

けれどもキリストは「善を行うことか、悪を行うことか」と付け加えて問いかけられました。ファリサイ派の人々にとって、命の危機においては安息日規定を破っていい、という解釈はあくまで例外的なものであったため、誰かの命にかかわることでなければ、たとえ善いことであってもしてはならない、という立場を取っていたからです。それゆえに、彼らは沈黙せざるを得なかったのです。

だからこそ、そこには律法の根本にある愛が欠けていることに、キリストは怒り、そしてそれを諭す御言葉をも聞き入れない彼らに対して、悲しまれたのです。

キリストは癒しを行うことでファリサイ派の人がキリストを殺す算段を始めることも、きっとご存知であったことでしょう。しかしそれでもキリストは、手の萎えた人の苦しみに寄り添っていかれました。それこそが、安息日論争を通して、そしてキリストが十字架を通して私たちに伝えたかったことではないかと思います。

カンヌ国際映画祭の最高賞を受賞した『万引き家族』が先日話題になりました。
その中で、私たちが見て見ぬふりをしたくなるような社会問題に切り込みつつ、そのただなかで生きている人々の幸せや愛が、法律という正しさによって一方的に踏みにじられていく現実を描き出していました。
人と人とが互いの痛みや喜びに寄り添い合って生きるということが、文字によって定められた普遍的な正しさによってないがしろにされていく。その現実は、2000年も前から変わらない私たちの姿を現しているのかもしれません。
時に誰かを正しさで縛り、時に縛られて苦しみの中にありながらも、誰にも寄り添ってもらえない、そのような私たちに、キリストは命を懸けて、寄り添ってくださっているのです。

命のすべてを懸けて、善を行い、私たちの命を救ってくださるお方が、ここにおられます。
私たちはそのお方に、祈りをもって、ありのままの姿を受け止めていただくだけでいい。その思いに、私たちと同じように怒り、悲しみ、そして寄り添ってくださる方こそ、十字架のキリストなのです。
そのようなキリストの愛に満たされて、私たちもまた、誰かに寄り添っていくための一週間を始めてまいりたいと思います。キリストは今日も、善を行い、誰かのいのちを救うために、私たちを召し出しておられます。すべての人々の「真ん中に立ちなさい」という御言葉によって、立たされ、生かされてまいりましょう。