2018年7月11日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。
そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

──マルコ福音書3章20-30節

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今日の箇所ではイエスの身内たちが登場しています。彼らは人々が「あの男は気が変になっている」と言っているのを聞いて、キリストを取り押さえに来ています。
また、彼らにとっては社会のエリートであった律法学者たちが「あの男はベルゼブルに取りつかれている」「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた言葉も聞いていたことでしょう。
キリストは、社会からはじかれて苦しみの中にいる人々に、神の愛をもって寄り添っていかれました。けれどもそのほかの人々──敵対もせず、現状に不自由のない人々にとっては、それは「わたしの救い」につながるものではなかったのかもしれません。
イエスの身内の人々はキリストご自身を見て判断するのではなく、他の人々から聞いた言葉の方を信じてやってきているのです。

さらに言えば、律法学者たちがキリストを中傷している言葉も、キリストを全く見誤ったものであると言えます。悪霊を追い出すためにより強い悪霊の力を使っているのだという彼らの主張の裏側には、キリストが神の力を用いているとは信じたくない、彼らの心が透けて見えるようです。つまり、今日の箇所に登場する人々は誰一人として、キリストご自身を見ようとはしていないのです。

新約聖書における罪という言葉には、「的外れ」という意味があります。イエスという男は何者であるのか、という問いの中で、彼らは的外れな答えを導き出したり、キリスト自身をまっすぐ見ようとはしていません。それが人の持つ罪と呼ばれるものです。
けれどもキリストはそのように悪霊に取りつかれたと中傷されようとも、その行いをやめることなく、またご自分で彼らを裁こうともされませんでした。
ただ、人々の的外れな捉え方を諭され、そして言われました。
「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」

キリストはその生涯の中で、苦しみ悩む全ての人に寄り添っていかれました。そしてまた、今は苦しみも痛みも感じていない人々に対しても、罪によってキリストご自身をまっすぐ見ることが出来なくなるという苦しみの中にあることを諭されています。そして何より、その裁きも救いも、キリストに与えられた聖霊、神様ご自身にすべてを委ねられているのです。

私たちもまた、神様を自分の都合のいいように受け取ってしまってはいないでしょうか。どのようなときにも神様がすべての人々、私たち一人ひとりの救いのために働かれていることを、忘れてしまってはいないでしょうか
時には私たちには神様の御業と思えないことが起こるときもあります。けれどもそのようなときにこそ、いつでも神様ご自身をまっすぐに見据えていきたいと思います。
そのために、繰り返し聖書の御言葉に聞いてまいりましょう。そこには苦難の中にさえ神様の愛があり、慰めと癒し、赦しと平安があることを、キリストは確かに、私たちに語ってくださっています。その御言葉を通して、私たちの罪も救いも、すべてを神様にゆだねる、そのような心をもって過ごしてまいりたいと思います。