そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
──マルコ福音書5章25-34節
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今年の四月に、女性の市長が相撲の土俵には上がれないというニュースが取り上げられました。日本の伝統芸能には女人禁制がよく見られますが、このことの根元にある考えは「女性が汚れを持ち込むのを避けるため」であるといいます。
聖書の時代から、女性は男性に比べて汚れに関する律法が厳しく定められています。聖書の時代、血には命が宿ると考えられていたため、祭儀的な理由以外で血を流すことは罪と考えられていました。本来イスラエルという共同体の安全や衛生の為に、そのように罪を犯したものを隔離・追放する、それが「汚れている」とされることだったのだろうと思います。
けれども女性には生理的に避けられない月のものや出産に伴う出血が起こります。律法によれば血を流しているあいだ、つまり汚れている時は、その人に触れた人、触れたもの全てが汚れたとみなされます。
今日の福音書の箇所において出血の止まらない女性は、どれほど苦しい思いの中にあったことでしょうか。血が止まらない病による苦しみに加えて、律法に規定されている汚れによって、12年ものあいだ、人間関係すらも断ち切られる苦しみもありました。
彼女が願った「この方の服にでも触れれば“いやして”いただける」の原文を直訳すると、そのことがよくわかります。「この方の服にでも触れれば“救って”いただける」となるからです。そのあとの「病気がいやされた」に使われている単語とは違うのです。彼女は病だけではなく、心の癒しも求める救いをも願っていたのです。
彼女はイエス様が神様であることをわかって救いを求めたわけではありませんでした。わらをもつかむ思い、小さな信じる心があっただけでした。
キリストに触れたのは、裾を少しだけ掴むような弱い力だったことだと思います。しかしキリストはそのひと触れの中に、一心にキリストへと心を向ける、彼女の祈りを聴きとってくださったのです。
病がいやされた彼女を、キリストは懸命に探し始められます。それは、彼女が願ったその救いの全てを満たすためです。彼女の病を癒すだけではなく、彼女のこれからの日々の歩みをも祝福するために、彼女を探しておられたのです。
「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
誰一人として、救いに相応しい信仰を自分で手に入れることができる人はいません。真の信仰は、神様から与えられるものであるからです。
キリストは、彼女の小さな信仰によっていやしを与え、御言葉によって彼女のうちに真の信仰を与えられました。このキリストと彼女との交わりが告げているように、私たちもキリストにのみ心を向けていく時、私たちの日々のただなかにキリストとの交わりと救いとが起こってくるものなのです。
私たちが日々の中で、当たり前だと思っていること。その一つ一つを思い返し、キリストに心を向けてみませんか。
今日も朝、新しい目覚めが与えられたこと。
美味しくご飯が食べれること。
誰かと喜びも悲しみも分かち合うことが出来ること。
そのような誰かが一緒にいてくれること。
そして一日をきちんと終えることが出来ること。
その一つ一つを通して、キリストは私たちと関わり、語り掛けてくださっています。
私たちもまた、いつでもその救いと信仰に満たされて、感謝と共に歩んでまいりたいと思います。