2018年8月8日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。


──ヨハネ福音書15章9-12節

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私たちが平和を考えるとき、その対岸に戦争を思い起こすことだと思います。けれども戦後74年が過ぎ、戦争を知らない世代が増えてきています。
私たちが平和を考えるとき、これまでスタートラインとしてきた戦争の実体験や実感のこもった伝聞が失われていくとしたら、私たちはいったい何によって平和を考え、踏み出していけばよいのでしょうか。

漫画を原作とした「この世界の片隅に」というアニメーション映画が二年ほど前に上映開始され、日本アカデミー賞など数々の賞を受賞しました。
この映画では戦争を題材にしながら、戦い争うシーンは一切描かれません。あくまで広島・呉に住む人々の日常に焦点を当てた作品です。この映画の一番の特徴として、アニメーションでありながら、当時の呉の風景や、人々の細やかな所作などが丁寧に表現されていることがあげられると思います。それゆえに、登場人物たちの姿がまるで私たちと同じように”生きている”という実感が湧き上がってくるのです。
戦争という現実感が薄れていく現代において、この戦争映画が多くの人々の心に響いたのは、劇中で丁寧に描かれた登場人物たちが“生きている”ということへの共感があったからではないかと思います。誰かを信じたいと思う心、誰かを愛し、時には衝突し、悩みながら、どうにか折り合いをつけて生きていく。その姿は現代を生きる私たちと何も変わらないのだという共感から戦争を語っていったからこそ、現代の多くの人々の心に響いていったのです。

“生きている”ということに深く踏み込んでいった先にある言葉は、時代を超えて、私たちに響いてくるものです。
戦争体験の語り部の方々の言葉がいつもリアリティをもって響いてくるのは、目の前に起きた出来事の中で、その方がどのように”生きた”のかということに深く踏み込み、その先にある言葉を伝えてくださったからだと思うからです。
そして誰よりも深くその境地に踏み込み、今なお私たちに響いてくる御言葉を語ってくださったのが、イエス・キリストという方でありました。

平和の主日の箇所として選ばれているのは、ぶどうの樹のたとえに続けて語られている箇所です。
キリストは言われます。「わたしにつながっていなさい、わたしもあなたがたにつながっている(ヨハネ15:4)」
キリストにつながることは神の愛に留まることであること、そして私たちが神の愛に留まるために、互いに愛し合うという掟を守りなさいと語られるのです。

キリストは神の愛によって、平和を実現しようとしておられました。そして十字架によって、神と人との間に平和を実現されました。それゆえ、私たちが平和を考えるとき、私たちに語られたこのみ言葉を、平和への道しるべとしたいのです。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と言われるキリストが、どのようなときにも私たちと共におられ平和へと導いてくださっているからです。

私たちの日々は、平和ではありません。戦争がないということだけが平和ではありません。誰もが抱える病の問題や、人間関係の問題に日々悩まされているからです。
けれども私たちが愛することのできない自分自身、私たちが愛せない誰かのために、キリストは十字架にかかってくださったことを思い起こしたいのです。
誰もが等しく、神様から尊い命を与えられて、ここに“生きて”います。そのことを思い起こすとき、キリストは必ず、私たち一人ひとりの手と、その人の手とを、しっかりとつなぎ合わせてくださいます。
その手を結び合わせてくださるキリストのみ言葉をスタートラインにして、私たちもまた、平和への道を、一歩ずつ、踏み出していきたいと思います。