2018年9月27日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」

 ──マルコ福音書8章27-38節 

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1.弟子たちのメシア像


旧約聖書において「メシア」という言葉は「油注がれた者」、つまり「王」という意味を持っており、ダビデやバビロニアの支配からイスラエルを解放したアッシリアの王を指す言葉として使われています。
イエス様が弟子たちと共に生きていた時、彼らが読んでいたのは旧約聖書でした。それゆえ「それでは、あなたがたは、私を何者だというのか」というキリストの問いかけに対してペトロが答えた「あなたは、メシアです」という言葉は、政治的に国を建て直すためのリーダーとしてメシアを捉えていたのです。
だからこそペトロはイエス様がメシア、キリストであるなら、その宗教的側近ともいえる「長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺される」王などありえないのだと思い、いさめ始めてしまったのです。
それに対してイエス様は強い言葉で叱っています。しかしここで「振り返って弟子たちを見ながら」と書かれていることから、そのようなメシア像を考えていたのは他の弟子たちも同様であったのでしょう。

2.苦難の僕とすべての人の救い


しかしキリストはそれとは真逆の、イザヤ書に記された苦難の僕の姿にこそすべての人の救いを見出していったのです。
イザヤは苦難の中にある僕を預言しています。多くの苦難の中にあってなお、自分を認め、支えてくださる神様が共にいてくださるということこそ、救いであるのだと、ここで僕は語るのです(イザヤ50:4-11)。
キリストもまた、すべての人にとって誰もが迎える最大の苦難が死であることを見据えておられたのです。だからこそキリストは十字架の道こそがすべての人に与えられる最も大きな救いであるのだとして、「はっきりとお話になった」のです。

3.救いへ踏み出す


私たちが身近な人の死、愛する人の死を経験するとき、そこにあるのは耐え難い悲しみであると思います。しかしそこにこそ与えられるキリストによる救いとは、死と悲しみをそのまま取り除いてくださることではありません。
この世に生きる私たちの痛みと悲しみに寄り添い、支えてくださることであり、そのような十字架のキリストを私たちが信じ、歩むことによって、死の先には永遠の命が与えられていく、それこそが救いであるのだと、ここで語ってくださっているのです。
すべての人が逃れられない死という痛みを抱える現実の中にあって、それでも私たちが信仰によってキリストに従っていくときに。すべての人の死は、その先にある永遠の命へと繋がっていく、その福音を聞くのです。
キリストが、メシアが救うのはたった一つの国ではありません。性別を超え、国を越え、そして時代をも超える、ここに生ける一人ひとりのための救いを与える為に、ここでキリストは、その歩みを始めるのだと宣言されているのです。

4.イエス・キリスト


だからこそ私たちがいのちと死について考えるとき、いつでもキリストから問いかけられているのだと思います。
「あなたは、わたしを何者だと言うのか」と。
そのときこそ、私たちは力強く答えたいのです。
「イエス様こそ、私の救い主です」と。
私たち一人ひとりもまた、どのような苦難と悲しみの中においても共にいてくださる神様から慰めを受け、キリストが歩まれた道を一歩ずつ、歩んでまいりたいと思います。