2019年1月2日水曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、あったのとのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。
親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。


──ルカ福音書2章25-40節

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1.救いを待ち望む人


シメオン、という人物が登場しています。彼は「正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。」と表現されています。ここでいう慰めとは救いと同じ意味です。
新約聖書の中にはキリストが神殿の中で商売をしている人の机を倒したり、神様を信じるということが形骸化してしまっている律法学者たちとの論争が多く取り上げられています。それだけイスラエル全体が神様に背いた時代、乱れた現実があったのです。
それゆえにシメオンはそのような現状を嘆く者であったのではないかと思います。
さらにはシメオン自身が「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」という聖霊のお告げは、彼がその嘆きの中にずっととどまっていなければならない、ということでもありました。

2.平安に満たされる日々へ


シメオンはキリストに出会い、幼子を「腕に抱いた」とき、神様をたたえる賛美の声を上げています。
この腕に抱くという言葉はギリシャ語では「受け入れる」という意味を持っています。ここでシメオンは聖霊に導かれてキリストに出会い、嘆きの中でキリストを受け入れることによって「安らかに」されています。
「安らかに去らせてくださる」という言葉から、シメオンが老人であるというイメージを持つかもしれません。しかし年老いていたと明記されているのはアンナだけであり、シメオンについてはそのように書かれてはいません。またこの後すぐにシメオンが天寿を全うしたとも書いてありません。
それゆえここでのキリストとの出会いは、目の前にある死が平安に満たされたものへと変わるということ、それだけではないのです。
私たちが誰一人として天に召される日がいつか知らないように、キリストを受け入れたその日から、この地上の命を終えるまでのこれからの日々が、嘆きではなくキリストによって平安に満たされていく、ということでもあるのだと思うのです。

3.罪を見つめる先に


私たちが過ごしたこれまでの日々はどのようなものであったでしょうか。私たちがキリスト者として立たされるからこその、出会いと別れ、喜びを悲しみもあったのではないでしょうか。
キリストをその腕に抱く、受け入れることとは、ただ平安が与えられるだけではありません。キリストは「多くの人を倒したり立ち上がらせたり…反対を受けるしるし」としてこの世に来られました。キリストに出会うということは、キリストの十字架を前にして自分の罪を見つめる時が私たちにも与えられる、ということであるのです。
私たちが神様の恵みだと喜ぶときにも、神様なんて信じられないと嘆くときにも、キリストは十字架を通して私たちにその罪を明らかにしてくださっているのです。それでも共にいてくださるキリストを私たちが受け入れるとき、これからの日々は平安へと押し出されていくのです。

4.シメオンの賛歌


シメオンは「“霊”に導かれて神殿の境内に入ってきたとき」キリストに出会っています。私たちがキリストに出会うとき、そこには確かに神様の働きがあります。シメオンが長らく「待ち望ん」でいたように、私たちが強く強く神様を望み続ける、祈りの時もまた長い時になることもあるかもしれません。
しかしお生まれになったキリストが私たち「万民のために整えられた救い」であることを信じて待ち望むとき、確かにキリストに出会うその時が誰しも与えられていくのです。
私たちの地上の命が尽きるその日まで、そのすべてを聖霊によって導き、キリストの十字架によって平安へと押し出してくださる主がおられます。だからこそ私たちも、シメオンの賛歌を歌い上げながら生きる、そのような日々にしてまいりたいと思います。