2019年4月18日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。二人は、「主がお入り用なのです」と言った。そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。 「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」
エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」
それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』/ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」
毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。

──ルカ福音書19章28-48節

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1.平和の王として来られた

イスラエルの中心であったエルサレムに到着するとき、イエス・キリストは弟子たちの賛美の声に包まれながら歩まれました。彼らの姿は、当時の凱旋パレードによく似ています。ゼカリヤ書の9章にあるように、平和の王はロバに乗ってくると預言されているからです。イエス様は平和の王として凱旋し、そしてその道の先には、十字架を見据えておられました。
イエス様に従っていた人々は、病や職業のために律法学者たちや社会のエリートたちから差別され、弱くされていた人々でした。
キリストはそのすべての人々の間に平和をもたらすために、やってこられたのです。

2.弱さと罪を見る

私たちが生きる現代において、弱くされている人々とは誰のことを指しているのでしょうか。もしかしたら、心や体に病を持つ人や、マイノリティと呼ばれる人々、ホームレスの人々を思い起こすかもしれません。
それでは、私たち自身はどこにいるのでしょうか?
わたしたちの誰もが、自分が弱くされている、ということを思い起こすことは誰にとっても難しく、あるいはつらいことです。それは私たち自身に降りかかる差別や、苦しい経験を思い起こすことになるからです。
社会の中には私たちを傷つけてくるものにあふれています。つい先日も東京大学の入学式の祝辞が話題になったように、その裏側には、この社会には差別が当たり前に横行していながらも、誰もが見ないふりをしている、という現実があるということだと思います。
私たちは誰もが、差別を受け、傷つけられ、弱くされていくことがあります。
またその反面で、誰かを差別し、傷つけ、そして弱くしていく罪深さも持っているのです。

3.キリストの涙

イスラエルの人々の間にある平和は、このような罪深さによって失われていました。彼らの罪が行きつく先は、自分たちが弱くしていた人々に寄り添ったキリストの言葉を聞き入れず、十字架にかけるということでした。
私たちの現実においても同じであるのだと思います。私たちの間にある人と人との平和は、同じように失われています。神様との関係も多くの人々にとって失われています。
だからこそキリストの十字架の出来事は2000年も前に過ぎ去った出来事ではありません。今を生きる私たちの罪と弱さのために、キリストは十字架にかけられたのです。

4.十字架の意味

このようにして、キリストの十字架には二つのことが見えてくることであると思います。それは私たちが誰かを弱くしてしまう罪深さのゆえに、キリストは十字架にかけられていったのであるということです。そして私たち自身もまた誰かによって弱くされてしまう、その傷みの中に、キリストは十字架の苦しみによって寄り添ってくださっているのだということです。
これらのことを受け止めるために、私たちが普段振り返りたくないと思う、自分の薄暗い部分に踏み込まなければなりません。
キリストの十字架の意味は、その中にしか見いだせないものだからです。

5.讃美の声が再び上がるとき

私たちがキリストの十字架のゆえに私たちの弱さと罪深さに踏み込んでいくとき、それは祈りによって為されるものです。私たちは一人でそれに立ち向かうことはできません。そんなことをすれば、たちまち堪えられなくなってしまうからです。
その時、私たちの弱さのゆえに、罪深さのゆえに、私たちは祈りの言葉を失い、讃美の声すらあげられなくなるかもしれません。
しかし私たちがその痛みのうちに、キリストの十字架を見つけるとき、私たちは初めて、その十字架から復活されたキリストが、私たちにもその救いを与えてくださっているという喜びを受け取ることができるのだと思います。
その時にこそ、私たちは再び、本当の意味での讃美の声を、上げることができるのです。