2019年8月22日木曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」


──ルカ福音書12章49-53節

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1.平和ではなく分裂を

柔和で、愛に満ちた平和の君であるイエス様が「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」と厳しい言葉を語られていることに、私たちは驚くかもしれません。
その分裂を引き起こすのは「火を投ずる」ことによってです。
火のイメージは、使徒言行録の聖霊降臨の出来事を思い起こしますが、神様の言葉が火のイメージで表されていますから、神様の言葉によって分裂が引き起こされる、とここでイエス様は語っておられるのです。

2.7割の人々の間で

文化庁が行った日本の宗教観についてアンケートの中で、「あなたは何の宗教を信じていますか」という質問に対して、七割以上の人々が信仰を持っていない、信じていないと回答していました。
そのような人々とキリスト者が関わるとき、祈ることや神様を公に語ることがためらわれる、ということも多くあるのではないでしょうか。
その結果、私たちは彼らに流され、キリストの言葉とは正反対の考えや行動をしてしまうこともあるのではないでしょうか。

3.キリスト者同士においても

これはキリスト者同士においても起こりうることです。現実としてキリストの言葉をすべて守っていられないとしたら、個々人の「出来る限り」、守るべき御言葉がチョイスされていくことになります。
それは、個々人が定める「正しい信仰」をめぐって分裂をもたらすのです。
私たちのだれもが、ほかの誰かとの分裂を避けられないし、それは神様との関係も断絶してしまうことになる、ということを、イエス様は語ってくださっているのです。

4.分裂をもたらす罪と鍛錬

隣人を、敵すらも愛すること、赦すこと、受け入れること……イエス様は、私たちが到底守れない理想として、様々な掟を語られたわけではないはずです。
しかし私たちがその掟をなかなか守ることができないのは、罪が私たちの中に巣食っており、他者との関係へと向かわせる神様の言葉よりも、自分勝手に生きようとささやいてくるからなのです。
ヘブライ人への手紙には「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。(12:4)」と主の鍛錬について語られています。
私たちは私たちの罪と対立しなければなりません。それは神様から与えられた鍛錬であるからです。
そこには失敗も迷いもあってよいのだということを、直弟子であるペトロたちの姿から見ることが出来ます。
ペトロはキリストの十字架を前にして裏切り、赦されて再び立たされてなお、罪の誘惑から異邦人たちと共に食事をすることを躊躇い、パウロに諭されているからです(ガラテヤ2:11以下)。
それでもペトロはその後もキリストの言葉を語り、キリスト者として生きることをやめませんでした。
その姿は私たちがキリスト者として生きるということに勇気を与えてくれると思います。

5.分裂の先へ歩みだす

私たちも、罪人なのだからキリストの言葉は守れない、とあきらめるのではなく、何度できないことがあろうとも、絶えず誰かを赦し、愛し、助け、共に生きていくということをチャレンジし続けることこそ、キリストの言葉に従って生きる、ということではないでしょうか。
キリストの言葉は、分裂を通して私たちの罪を明らかにします。自分の弱さや見たくもない本当の自分が明らかになるかもしれません。
そのような私たちの罪を、幾度となく起こる挫折を、キリストは十字架によって赦してくださっているのです。
私たちはそれを信じているからこそ、分裂を恐れず、罪に立ち向かうことを恐れず、話し合い、理解しあい、赦しあい、愛し合うための一歩を、何度だって踏み出していけるのです。