2021年6月7日月曜日

牧師エッセイ(2021年6月)

あるゲーム好きのライターが「最近好きなゲームでもすぐ飽きてしまう」ことについて記事を書いていました。
小さい頃は何時間でもゲームに没頭できたのに、三十路をこえた今、遊んだ傍からやめたくなってしまう。これは老化だろうか?という問いかけから始まったその記事は、最後には「ゲームへの熱量、愛着が減った一方で、植木とか、天候とか、いわゆる『花鳥風月』に興味が移るようになった。(中略)しかもその楽しさは年々強まっている。」と締めくくられていました。
いつもはゲームを熱く語っている方であるにも関わらず、あまりの変わりように笑ってしまいました。

しかし同時に、私自身も最近特にその『花鳥風月』に心惹かれることが多くなったなと思い返しています。
朝のさわやかに吹くそよ風や、静かに降る雨の音に心が癒されたり、道端のコンクリートから根性強く生えてくる一輪の花に励まされたりします。
それはきっと根源的な、神様が造られた私たちの「いのち」が感じているものなのかもしれません。

旧約の人々は宇宙や自然の美しさに神様の御業を見出しました(詩編8篇)。
その祈りは神様への悔い改めと賛美に繋がっていきます。
私たちの周りには人間が作り出した多くのテクノロジーが溢れていますが、その中において神様が創造なさったものに心惹かれるとき、そこでわたしたちのいのちは神様との関わりを求めているのだと思います。
日々のあらゆるところに神様の恵みを見出すことのできる心を保ちたいものです。