2021年9月6日月曜日

牧師エッセイ(2021年9月)

パラリンピックの「パラ」はどんな意味が込められているのでしょうか。
パラリンピックの原点は第二次世界大戦後、脊髄を負傷した兵士たちの治療と社会復帰を目的にした脊髄損傷科が設立され、
ルードウィッヒ・グットマン医師が患者のリハビリのためにアーチェリー大会を開いたのが始まりとされています。
それゆえ、初めは「Paraplegic(対麻痺者の)Olympic」と呼ばれていました。

ここから様々な障がい者が加わって競技性の高いスポーツ大会を望むようになり、この名称をギリシャ語の「Para(παρά)+Olympic」と解釈しなおしたそうです。
このπαράはギリシャ語の接頭辞で、「~に沿って、~のそばで(場所)」や「~から」という意味を付けるものです。
オリンピックの「そばで」開催されたことが理由だと思いますが、もう一方の「~から」という意味で読むのも興味深いものです。

元々オリンピックはフランスの教育者ピエール・ド・クーベルタン男爵が「スポーツを通じて平和な世界の実現に寄与する」ものとして始めたのがきっかけだと言われています。
そしてパラリンピックを始めたグットマン卿は、元々ナチスのユダヤ人迫害から亡命した医師でもありました。
戦争によって身体も心も傷つけられた人々の「そばに」彼が寄り添い、
オリンピック「から」分かち合われる平和を、障がい者となった彼らにもそれを与える大会としてパラリンピックが始められたことは、オリンピックの起源と響きあうように思うのです。

平和は誰かと共に生きる中に与えられるものです。
キリストが語った「まことの平和」は、スポーツ精神の中心──誰もが同じ土俵で互いを認め合い高め合う、そのような関係にも見られます。
だからこそオリンピックの中で競い合う彼らの姿は、福音と同じように私たちの心を打つのかもしれません。