2022年7月4日月曜日

牧師エッセイ(2022年7月)

ルイ・ジャンモ 「魂の詩 聖なる創造」

今から800年ほど前に、フリードリヒ2世という王様が、人類の言葉の起源を探るべく、一つの実験をしました。
産業革命の時代のヨーロッパは多くの捨子が問題となっていて、修道院がその子供たちを引き取って育てていましたが、ある時ローマの皇帝フリードリヒ2世は親から捨てられた子供たちを見て、「もし赤ん坊に一切言葉をかけずに育てたら、言葉の起源がわかるのではないか?」と考えたそうです。
そこで、赤ちゃんをお世話する修道士たちにマスクを付けさせて表情が見えないようにし、目を合わせず、言葉を一言もかけずに、入浴や食事といった生命維持に必要なお世話だけをさせるという実験を行いました。
その結果、実験に参加させられた赤ちゃんは3歳になるまでにほぼ全員が死亡、生き残った子どもも6歳まで生きられなかったそうです。
この実験は後の時代の心理学者によって再び行われ、ほとんど同じ結果になりました。現代では倫理的に許されることのない実験ですが、このことからわかったのは、「人は誰かに言葉をかけられることなしには生きていけない」という事実でした。

「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。(ヨハネ1:3-4)」とヨハネ福音書は創世記の創造物語を語りなおしています。
この「言」とは創造物語の中で神が「光あれ」をはじめとした多くの言葉によって世界を創造したことと同時に、イエス・キリストのことを表しています。
イエス・キリストご自身と、キリストを通して語られた神様の言葉の中には「命」があるというこの聖書の言葉は、まさに私たちが言葉をかけられることなしには、どう生きていけばよいかの道しるべたる「光」を得られないということでもあるかもしれません。
それは単に歩むべき道だけにとどまらず、いのちそのものを左右するほどのものであることを、実験は証明し、そのはるか昔から、その真理について聖書は語っていたのです。
わたしたちが口にする言葉は、誰かを生かすものでしょうか。
その逆の言葉を吐いてしまってはいないでしょうか。
神様から与えられた尊いいのちと共に、私たちには、いのちを生かす言葉をも与えられていることを心に留めて、過ごしてまいりたいものです。