2023年8月7日月曜日

牧師エッセイ(2023年8月)

「平和」という言葉は本来、私たちにとって失われてはならない言葉であると思います。
しかし近年ではこの「平和」という言葉が、色々なところで軽く扱われているように思います。
実際には平和とは思えない言動や行動をしていながら平和を標榜する、そのような例は世界中でいくつも挙げられるからです。
「平和」という言葉だけではありません。「正義」や「正しさ」、時には「あなたのためを思って」という善意さえ、その言葉とは逆の現実を生み出すことがあります。

聖書は神様が平和を望み、正義と善──愛に満ちた関わりに生きるようにと私たちに勧めています。
それに従って生きようと思うことは何も間違ってはいません。
しかし私たちのうちには、それを間違った形へと変えてしまおうとする罪もまたあることを、注意しなければならないのだと思います。
パウロも引用しているように、「彼らは隣人と平和を語りながら、その心には悪があるのです。(詩編28:3)」と聖書は人間の現実を叫んでいるからです。

私たちの平和、正しさは、御言葉に照らして、神の愛に照らして、自分のためではなく相手のための正しさに、平和をもたらす歩みに、立てているだろうか。
そのように私たちがいつも自分自身を振り返り、問い直し続けることでしか、罪から逃れるすべはありません。
だからこそキリストは、私たちが絶えず悔い改めることができるように、私たちの罪を十字架において背負ってくださったのです。
平和を覚える時、パウロの言葉を胸に刻みたいと思います。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。…十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。(エフェソ2:14)」


アンソニー・ヴァン・ダイク
「十字架の聖フランチェスコ」