2023年11月6日月曜日

牧師エッセイ(2023年11月)

最近、1歳半の娘のマイブームはお散歩です。
公園まで足を延ばしたり、教会の周りやスロープをぐるぐると歩き回るだけで楽しいようです。
まだまだ走り回るまではいきませんが、5センチくらいの段差があると、まずじっとその段差を見つめて、意を決するように片足を出して降りるようにしていました。
娘にとっては何もかも初めてですから、小さな段差一つでも、全力をもって向き合い、挑戦し、乗り越えています。
それを見て、私たちはいつ頃から「初めて」を避けるようになるのかな、とふと思いました。

人は成長と共に、経験と知識を得て、人との関わりや振る舞いにおいても大人として見られていきますが、その反面、「初めて」のことに対して恥を感じたり、失敗への恐れを抱えて、できる限り避けたいと願うことも増えていくようにも感じます。
しかし、本来「初めて」の一歩とは、私たちが生きる上で絶えず出会うものです。
老いや病といった、全ての人にとって避けられない「初めて」も多くあります。

イエス・キリストの生涯は、人との関わり、そこに起こる様々な喜びと争い、痛みと苦しみ、迷いと慰めに満ちています。
そしてついには死の悲しみさえも、神様は私たちと同じものを経験してくださったのです。
それが、イエス・キリストという神が人となられたことの意味でした。
そして、地上の命における歩みだけでなく、その先に約束されている永遠の命においても、神様はいつだってその慈しみをもって私たちを支えてくださるお方なのです。

「足がよろめく」とわたしが言ったとき、
主よ、あなたの慈しみが支えてくれました。
           ──詩編94編18節

 私たちがこれから歩む道において出会っていくあらゆる「初めて」に対しても、神様のお支えをいただきながら、全力をもって向き合い続ける生涯の歩みへと踏み出してまいりたいものです。