2020年1月31日金曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。

──マタイ福音書4章12-23節

† † †

1.神の支配が届かない地から

ヨハネが捕らえられたのは、当時ガリラヤを統治していたヘロデ・アンティパスによってでした。
キリストはなぜ、ヨハネが捕らえられたと聞いたにも関わらず、わざわざ危険なガリラヤから宣教の第一声をあげられたのでしょうか。
福音書記者であるマタイはこれをイザヤの預言から説明しようとしています。
イザヤが預言した時代、イスラエルはシリア・エフライム戦争の前後であったと言われています。
この戦いによってガリラヤはアッシリアを始めとした諸外国によって統治され続けるという歴史を歩みました。
それゆえユダヤの一地域でありながら「異邦人のガリラヤ」と呼ばれ、人々からは神様に顧みられない土地として見られるようになっていったのです。

2.あなたの心のガリラヤ

キリストはそのような地で敢えて「悔い改めよ、天の国は近づいた」と語っていったのです。
天の国という言葉は他の福音書における「神の国」と同じで、神様の支配がいきわたり、人々が神様の御心のままに生きている領域を指す言葉です。
人の権力による支配がはびこり、人々から神様から最も遠い土地と思われていたからこそ、キリストはそこで語り始められたのです。
思えば私たちも、神様のみ言葉や御心よりも、私たち自身の思いや現実を優先してしまうところを心のどこかで持っているのだと思います。それは私たちの心のガリラヤとも言うべき場所なのです。
私たちが神様には顔向けできないと思う心、ガリラヤの中心で、キリストは私たちに語るのです。
「あなたの中で一番暗いこの場所にこそ、天の国がやってくる。だから、もう一回神様のために、生きてみないか」と言ってくださっているのです。

3.誰のために生きるのか

キリストの最初の弟子は漁師たちでした。
キリストは彼らを弟子にしましたが、彼らの漁師としての働きを否定したわけではありませんでした。これまでも漁師であった彼らは、これからは神様の働きをする漁師として招かれているからです。
私たちがクリスチャンになること、キリストの弟子となって生きることも、同じです。
洗礼を受けても、私たちが現実に生きる中でやならなければならない仕事や日々の様々なことは変わったりしません。
そこで起こる変化とは、その働きを神様のためのものとする、そういう変化であるのだと思います。
私たちが生きる場所全てが、神様のために働く場所になるという変化が起こるということです。

4.何度でも悔い改めよう

キリストの弟子とされたペトロやアンデレたちですら、その後も完璧にキリストの言葉に従って歩んだわけではありませんでした。
この世の地位を得ようと話し合ったり、死ぬまでついていきます!と熱く語ったにも関わらず十字架を前に裏切ってしまう姿が記されていきます。
ですから、キリストに従うということは、弟子たちがそうであったように、いつでも完璧に御言葉を守るということではないのだと思います。
時には躓くことがあってよいのです。
自分の思いや願いを優先してしまうこと、出来る範囲で誰かを愛すること、そのような罪があることをご存知の上でキリストは弟子を選ばれたからです。
避けることが出来ないからこそ、キリストはそのような私たちの心のガリラヤに差し込む救いの光として、語り掛けてくださるのです。
「もう一回だけ、私と一緒にやり直してみないか。」

5.キリストに従って生きる

何度罪に陥っても、そのたびに何度でも悔い改めて、何度でもキリストの弟子として新しく歩みだしていく、これこそがキリストの弟子としての歩みであるのだと思います。
今日のみ言葉から私たちも、その新しい一歩へと踏み出していきたいのです。
キリストに招かれ、躓いても信仰によって再び立たされる私たちに、キリストは手を差し伸べ、招いてくださっているからです。
「わたしについてきなさい」と。

2020年1月30日木曜日

次回2月2日・顕現後第4主日礼拝のご案内。

次週2月2日(日)10時半から、顕現後第4主日の礼拝が行われます。

長野教会・松本教会では野口和音牧師の説教
「幸福(さいわい)なるかな、」

と題して、
長野教会では信徒礼拝、松本教会では聖餐礼拝として守られます。
礼拝後、松本教会は60周年記念誌委員会が行われます。
どうぞご自由にご参加ください。
牧師は松本教会におります。お待ちしております。

† † †

イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

──マタイ福音書5章1-12節

2020年1月29日水曜日

今週の黙想文:ヨハネ4章35節

目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。
──ヨハネ福音書4章35節

† † †

松本教会は昨年宣教60周年を迎え、記念式典の中では宣教初期に様々な人々とのつながりの中で教会が立てられていったということを思い起こしました。
全国の教会も同様に、その時々に多くの人々が根気強く蒔いた福音の種が実って、今の教会の姿に繋がっているのだと思います。
サマリアの女性はキリストに出会ってすぐ、人々に救い主の到来を告げに行きました。
彼女の行動を見たキリストは弟子たちにその喜びを分かち合わずにはいられなかったのです。
私たちは今、先人たちが蒔いた種、福音の恵みに与っています。
「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」とキリストが言われた通りに、私たちも喜びに満ちて、これから先の人々がキリストに出会うための種まきを受け継いでまいりたいものです。


(20200226週報記載)

2020年1月28日火曜日

顕現後第3主日礼拝・長野教会総会

26日は顕現後第3主日礼拝でした。
長野教会では聖餐礼拝として、松本教会では通信礼拝として守られました。


Skypeで松本教会とリアルタイムで繋げる通信礼拝では、長野教会で司式する牧師が手元のPCでマイク等操作をしながら礼拝をしています。
松本教会の聖壇の壁には、司式をしている牧師の姿がプロジェクターで映し出されます。
奏楽や聖書朗読は松本教会から。2教会が祈りをひとつに合わせた礼拝です。


昼食後、長野教会では教会総会が行われました。
赴任して牧師2年目、2019年度、信徒の方々が教会と礼拝を守り、支えてくださったからこそだと感謝に包まれつつ、より一層長野教会のためにやれることを頑張っていきたいと思います。

日曜日明けて本日、雪景色となりました。
今年初めての雪かきをしました。松本での雪かきは初めてです。
この時期まで降らないのは大変珍しく、昨年よりも少しだけ厚めの雪でした。



雪だるまを何年かぶりに作りました。
顔を造るのは難しい。
雪害で困っている人がいませんように。

† † †

こごえるような寒さと病とに
苦しんでおられる方には
癒しと安らぎがありますように。
困難の中にある人に助けがありますように。

2020年1月24日金曜日

今週のみことば~主日説教要旨~

その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。
ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。


──ヨハネ福音書1章29-42節

† † †

1.キリストを聞き、キリストのもとへ

キリストから「あなたを人間をとる漁師にしよう」と言われたペトロやアンデレがキリストの弟子となっていく記事は有名ですが、このように記されているマタイ・マルコ・ルカの三福音書とは違い、ヨハネ福音書は人々がキリストの弟子となっていく出来事を違った経緯で記しています。
キリストから直接声を掛けられるのではなく、他の誰かからキリストのことを聞いてキリストのもとへやってくる、弟子として従っていく姿が記されているのです。
ヨハネが他の福音書とは全く違うキリストと弟子たちとの出会いを記しているのはなぜなのでしょうか。
それは、キリストとの出会いの機会が、時にキリストとは他の人を通して与えられることがあるということなのだと思います。

2.それもまたキリストの招き

私たちはどのようにして教会に行くようになるのでしょうか。
キリストが私を招いておられると感じたので来ました、と言う方がいるとすれば、なんと素晴らしいことだろうかと思います。まさに他の3つの福音書が語るキリストの招きがそこにあります。
また、ただなんとなく来てみたくて、友達に誘われたから、というきっかけで教会に足を踏み入れる人々は、それよりももっと多いかもしれません。
ヨハネ福音書の中で記されている弟子たちこそ、そのようなつながりからキリストと出会っていったのです。
4つの福音書が語るキリストとの出会いの出来事は、たとえどのような出会いかたであったとしても、キリストが弟子として従う私たちを選別することなく「来なさい」と招いてくださることを伝えてくれているのです。

3.現実とみ言葉が結びつく

ヨハネは「わたしはこの方を知らなかった」と言っています。
キリストの道を整えるために水で洗礼を授けに来たと語り、誰よりもキリストのことを知っていたはずのヨハネがなぜ、このように言ったのでしょうか。
それは、神様の言葉によってキリストの存在は知っていても、それがヨハネの目の前に起こった出来事と結びついて初めて「私はそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」と心から言えるようになったからなのだと思います。
だからこそ二人も、キリストに翌日出会ったその時には「ラビ(先生)」と呼びかけています。しかしその日キリストと止まった後、そのうちの一人、アンデレは「わたしたちはメシア(救い主)に出会った」と呼び方を変えているのです。
私たちがキリストに出会うということ、それは私たちが聖書から聞いたみ言葉が、現実の出来事と結び合わされる時であるのだと今日の聖書の箇所は語ってくれているのです。

4.神様は奇跡ばかりを起こすわけじゃない

これこそ神の働きだと多くの人が驚く奇跡があります。あるいはささやかで、しかし私たちの予想を越えた小さな奇跡から神様の働きを感じ取るかもしれません。
けれども神様の働きは、奇跡の中だけにあるわけではないのです。
ヨハネがキリストに出会い、キリストを本当に「知る」前から、ヨハネに神の言葉が与えられていたように、私たち一人ひとりにも聖書のみ言葉が与えられているからです。何気ない日常の出来事の一つ一つを通して、あなたを招いておられるのです。
そして今日この瞬間に、何気なくこのみ言葉を読んだあなたを、キリストは招いておられます。

神様はあなたに、「何を求めているのか」と問いかけておられます。
「そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。」
私たちもまた、今日のひと時を、キリストと共に過ごす時としてみませんか。
私たちのささやかな日常の中に、神様を求める時を、作ってみませんか。
「来なさい、そうすればわかる」と言ってくださったように、私たちが聞いたすべてのみ言葉を通して、キリストは私たちの求めに、必ず答えてくださいます。

2020年1月23日木曜日

次回26日・顕現後第3主日礼拝のご案内。

次週1月26日(日)10時半から、顕現後第3主日の礼拝が行われます。

長野教会・松本教会では野口和音牧師の説教
「心に差し込む光」

と題して、
長野教会では聖餐礼拝、松本教会では通信礼拝として守られます。
礼拝後、長野教会は教会総会が行われます。
どうぞご自由にご参加ください。
牧師は長野教会におります。お待ちしております。

† † †

イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。

──マタイ福音書4章12-23節

2020年1月22日水曜日

今週の黙想文:ヨハネ4章14節


わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。
──ヨハネ福音書4章14節

† † †

仕事や趣味、人との関わりなど、日々の中には私たちの心を満たしてくれるものに溢れています。しかしそれは一時のものに過ぎません。
私たちが渇きを満たそうとして求めているもののなかに、キリストを見出すことはできるでしょうか。
キリストが出会ったサマリアの女性は過去に5人もの夫がおり、今は夫ですらない人と連れ添っています。
しかしキリストは彼女の境遇と関係を否定することなく、別の避け所へと導くこともなく、彼女が生きるそのただなかでキリストを信じ、祈りなさいと勧められるのです。
ルターはキリスト者の自由の中で「キリストがわたしに対してなってくださったように、わたしも隣人に対して、一人のキリストになろう」と述べています。
私たちの生きるただなかにおいてキリストを見出し、キリストに生きるということを通して、渇くことのない恵みと喜びに満ちた水をいただいてまいりましょう。

(20200119週報記載)

2020年1月21日火曜日

顕現後第2主日礼拝。 20200119

19日は顕現後第2主日礼拝でした。
長野教会では信徒礼拝として、松本教会では聖餐礼拝として守られました。

今日から典礼布は緑です

この時期にも関わらず雪も積もらずの快晴で主日を迎えました。
ヨハネ福音書のみ言葉、弟子たちの召命の姿から、それぞれに教会につながるきっかけを思い起こしました。

昼食後は女性会の総会を行いました。
毎年総会日程の関係で牧師のいない2週目に行われていましたが、今年は総会日程をずらしたため参加出来ました。
来週は長野教会の教会総会です。

先週から週報には黙想文を掲載しています。
平日の黙想に用いていただければと思います。
このブログにも毎週水曜日に掲載します。

2020年1月15日水曜日

次回19日・顕現後第2主日礼拝のご案内

次週1月19日(日)10時半から、顕現後第2主日の礼拝が行われます。

長野教会・松本教会では野口和音牧師の説教
「神は奇跡だけを起こすわけじゃない」

と題して、
長野教会では信徒礼拝、松本教会では聖餐礼拝として守られます。
どうぞご自由にご参加ください。
お待ちしております。
牧師は松本教会におります。

† † †

その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。
ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。

──ヨハネ福音書1章29-42節 

2020年1月13日月曜日

主の洗礼日礼拝。20200112

12日は主の洗礼日礼拝でした。
長野教会では主日礼拝として、松本教会では通信礼拝として守られました。



キリストの洗礼の箇所から、洗礼を受けること、クリスチャンとして生きることについて改めて考える機会となりました。


昼食はシチューライス!
味しみしみの高野豆腐やお芋のてんぷら、軟骨揚げ触感の鶏の揚げ物など、おなかいっぱいいただきました。
いつも作ってきてくださる教会の方々に感謝です。

昨年よりも冬の訪れが穏やかですが、一日だけ急に冷え込んだりする日もあります。
インフルエンザにもお気をつけください。

† † †

体調を崩しておられる方に
癒しがありますように

2020年1月8日水曜日

次回12日・主の洗礼日礼拝のご案内

次週1月12日(日)10時半から、主の洗礼日礼拝が行われます。

長野教会・松本教会では野口和音牧師の説教
「さあ、ここから一緒に歩き出そう」

と題して、
長野教会では主日礼拝、松本教会では通信礼拝として守られます。
どうぞご自由にご参加ください。
お待ちしております。
牧師は長野教会におります。

† † †

そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

 ──マタイ福音書3章13-17節

2020年1月6日月曜日

主の顕現日礼拝 20200105

新年初めての礼拝は1月5日、主の顕現日礼拝でした。
長野教会では信徒礼拝として、松本教会は聖餐礼拝として守られました。



今日の日課では占星術の学者たちがヘロデ王のもとへとやってきた箇所でした。
私たちもヘロデ王のように自分の力により頼むことなく、不安にとらわれず、キリストにこそすべてをお委ねする一年を過ごせますように。

お昼は新春かきたまうどんを皆さんでいただきました。


今年もわたしたちの主、キリストと共に歩みを進めていけますように。

† † †

この記事をご覧の皆様の一年も
神様の恵みを見出すことのできる
一年となりますように

2020年1月1日水曜日

次回5日・主の顕現礼拝のご案内。

次週1月5日(日)10時半から、主の顕現の礼拝が行われます。

長野教会・松本教会では野口和音牧師の説教
「王とは誰か」

と題して、
長野教会では信徒礼拝、松本教会では聖餐礼拝として守られます。
どうぞご自由にご参加ください。
お待ちしております。
牧師は松本教会におります。

† † †

イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

──マタイ福音書2章1-12節

降誕節第1主日礼拝。20191229

あけましておめでとうございます。
12月29日は、2019年度最後の礼拝・降誕節第1主日礼拝でした。
長野教会では聖餐礼拝として、松本教会は通信礼拝として守られました。



クリスマス直後の主日として選ばれたのは、ヘロデ王が幼子イエスを殺そうとして、2歳以下の子どもを虐殺する場面でした。
ヘロデ王の生涯とその背負っていた重荷から、私たちのありのままを認め、受け止めてくれる方としてのキリストの福音を聞きました。
説教で紹介したのは、2019年に出版20周年を迎えた絵本「たいせつなきみ」。
シリーズ全6話が入れられたストーリーブックも出ているので、ぜひ読んでみてください。

† † †

2020年、新しい年が始まりました
今年も私たちに起こるすべてのことが
神様の御心のうちにあると
信じることができますように