2023年4月27日木曜日

次回30日・復活後第4主日礼拝。

次週2023年4月30日(日)は復活後第4主日の礼拝です。

野口和音牧師の説教
「あなたもわたしの羊」

と題して、
松本教会は通信礼拝として、
長野教会は主日礼拝として、
両教会10時半から行われます。


どうぞご自由にお越しください。
なお、礼拝動画は引き続き礼拝後に更新されますので、どうぞそちらもご覧ください。

† † †

「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。 門から入る者が羊飼いである。 門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。 しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」 イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。 わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。 わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。 盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

──ヨハネによる福音書10章1-10節

2023年4月26日水曜日

今週の黙想文(1コリ15:10)

神の恵みによって今日のわたしがあるのです。
──コリントの信徒への手紙 一 15章10節


† † †

パウロがいなければ現在のキリスト教はありえなかったと言われるほど彼の働きは大きいものでした。
その彼の原動力とは「神の恵み」によって与えられた「今日のわたし」であると証しています。
彼はかつてはキリスト教会の迫害者でありましたが、復活の主との出会いによって、過去でも未来でもない「今日」キリストの為に働く新しい命を与えられていったのです。
あるビジネス書にこのように書かれていました。
「プランニングにおいて重要なことは、明日何を行うかを考えることだけでなく、明日のために今日何を行うかを考えることです」。
パウロがそうであったように、今日私たちがどのような神の恵みに生かされているかに目を向けるとき、今日私たちがやるべきことが明らかになってきます。
キリストも「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ(マタ6:21)」と語りました。
今日という新しい命を与えてくださった神様にこそ心を注ぎ、その恵みに応える今日を歩みだしてまいりましょう。

(20230423週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2023年4月23日日曜日

復活後第3主日礼拝【礼拝動画】

本日4月23日は復活後第3主日礼拝でした。

野口和音牧師の説教により、
長野教会は聖餐礼拝として、
松本教会は通信礼拝として、
両教会10時半から守られました。

春があっという間に過ぎ去り、初夏のような暑さが数日続いた後に、今日はまた冬が舞い戻ってきたような寒い朝でした。
礼拝後、長野教会の教会員の方お二人一緒に納骨式を行うことが出来ました。
生前も仲の良いお二人であったこともあり、良い時となりました。

**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※動画は松本教会での礼拝となります。

**本日の使徒書・福音書**

使徒言行録2章14a&22-32節〈新p215〉
ペトロの手紙第一 1章3-9節〈新p428〉
ヨハネによる福音書20章19-31節〈新p210〉


説教「キリストを聞き取る信仰」

*祈り*

私たちの信仰の源である主なる神様。
あなたは十字架の出来事によってあなたの御心を見失ったものを、決して見捨てられませんでした。
むしろ、あなたがイエス・キリストにおいて救いを求める者たちにすすんで関わっていかれたように、復活の主においてもそのようにしてくださいました。
主よ、エマオで復活の主に出会い、信仰を通して福音に与った弟子たちが主を証する者となっていった出来事を聞きました。
私たち一人ひとりもまた、主の福音を追い求め、その救いの喜びと熱意に満たされますように。私たちの尺度では理解することのできないあらゆる導きと御心とに私たちのすべてを委ねつつ、いつもあなたに御心を訪ね求める者として辛抱強い信仰をお与えください。

あなたの十字架は、信じない者にとっては愚かな者であり、躓きであるとパウロは語りました。事実それはキリストの弟子たちにとってもそうでした。
しかしその挫折を信仰によって乗り越え、あなたの生きた語り掛けを私たちが聖書から聞き取る時、神様でありながら人として十字架で死ななければならなかった出来事の中に、私たちへの徹底的な寄り添いと赦しが示されていることを、信仰を通して受け取ることが出来ますように。
あなたの愛は、親が子に注ぐような愛であり、無限に湧き出る泉のように与えられています。
私たちが生きるこの世の歩みの中には、様々な挫折や不条理な苦しみが多くありますが、その中にあってあなたがどのように私たちを見ておられるかを、愛の在り方を通して私たちが考え、受け取っていくことが出来るように、信仰の耳を開いてください。

今日は過ぎる日に天へと召された長野教会員のお二人の納骨式が行われます。
主よ、あなたの御許に召された者の魂が、永遠の命と慰めの内にあって、安らいでいることを信じます。
地上での別れを告げてなお、わたしたちは点において神様の家族、兄弟姉妹とされていること、その関わりは決して切れることなく、愛に満ちて永遠に保たれる幸いを覚えさせてください。
わたしたちの今日のいのち、これからの歩み、そして地上の命の終わりを超えた先においても、どうかあなたの御心のうちに導かれますように。


2023年4月20日木曜日

次回23日・復活後第3主日礼拝のご案内。

次週2023年4月23日(日)は復活後第3主日の礼拝です。

野口和音牧師の説教
「理性の壁を超えるために」

と題して、
松本教会は通信礼拝として、
長野教会は聖餐礼拝として、
両教会10時半から行われます。


どうぞご自由にお越しください。
なお、礼拝動画は引き続き礼拝後に更新されますので、どうぞそちらもご覧ください。

† † †

ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、 この一切の出来事について話し合っていた。 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

──ヨハネによる福音書24章13-35節

2023年4月19日水曜日

今週の黙想文(マルコ11:3)

『なぜ、そんなことをするのか』
『主がお入り用なのです』
──マルコによる福音書11章3節


† † †

イースターを迎え、神様が私達に備えてくださった救いのすべてが明らかにされました。
私達はその救いに生かされ、また関わり合う人にもその救いを証しする役割を命じられた者であるはずです。
しかし宣教というと、どこかで「私にはそんな大それたことは出来ない」と感じている人がほとんどではないでしょうか。
主の福音を人々の前で明確に言い表すことは素晴らしい宣教の働きですが、その当人が神様への悔い改めに生かされた人であるように見えなければ、その証は全く力を持たないでしょう。
キリストはエルサレムへと迎えられるとき、王でありながら無力な子ロバに乗ることを選ばれました。
それは預言の成就のためでもありましたが、そこには神様への服従と、何より謙虚さが現れています。
私達一人ひとりが神様の宣教のためにご入用とされている、そのことを心に留めて歩むとき、目に見えて他者に称賛されるような働きばかりでなく、謙虚にその身を振り返ることもまた大切であることを思わされます。

(20230416週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2023年4月16日日曜日

復活後第2主日礼拝【礼拝動画】

本日4月16日は復活後第2主日礼拝でした。

野口和音牧師の説教により、
長野教会は信徒礼拝として、
松本教会は主日礼拝として、 両教会10時半から守られました。

黄砂もひとまず落ち着き、からりと晴天に恵まれた日でした。
それぞれの場所で祈りを合わせている方々の上にも、復活のキリストの喜びが分かち合われますように。

**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※動画は松本教会での礼拝となります。

**本日の使徒書・福音書**

使徒言行録2章14a&22-32節〈新p215〉
ペトロの手紙第一 1章3-9節〈新p428〉
ヨハネによる福音書20章19-31節〈新p210〉


説教「キリストを聞き取る信仰」

*祈り*

平和の主なる神様。
あなたは恐れの中にある弟子たちに、復活の命を御示しになりました。
それは弟子たちを罰するためではなく、赦しをもって悔い改めへと導くためでした。
主よ、あなたの愛は私たちの想像を超えて果てしなく、かえって私たちを自分の罪に向き合わせてくださいます。
私たちが絶えず罪に沈んでいようとも、また利己的・保身に走ろうとする弱さのゆえに、誰かを無為に傷つけたり、あなたを信じて委ねることができなくとも、主よ、あなたはどこまででもわたしたちを赦されます。
私たちが絶えずあなたに悔い改めることによって、いっそう恵み深くあなたに生かされることができるようにしてください。
自分ばかりではなく他者を慮り、傷つけてしまった人には心から謝る勇気を与えてください。わたしたちが自分の望むものが得られないからといって愛を失うことがないように、あなたの愛が私たちのうちから泉のように湧き出るように、あなたに仕える生涯を歩んでいくことができますように。

私たち人間のあいだには、平和がしばしば失われます。
相手のためにと思ってやったことが裏目に出て、あるいは誤解され、敵意を向けられることもこの世の至るところで起こっています。
さらには進んで誰かを傷つけることによって、自分を保とうとする人もいます。
人と人との間だけではない、国と国とが争いあい、自らの力を誇示しあいます。
それらはすべて、罪と他者への恐れから生まれるものです。
主よ、あなたは十字架と復活によって罪と死を滅ぼし、その赦しをもって平和への道を示してくださいました。
今日誰かと共に生きるわたしたちを通して、恐れを取り除き、赦しと愛に生かす、そのような天の国における関係性を、一人でも多くの人々とのあいだにもたらすことができますように。
誰一人傷つくことを望んではおらず、誰一人として滅びることを望んではおられない愛の神、主イエス・キリストの御心をわたしたちの心として、キリストを証しする歩みを、今日から再び始めることができるように、復活の主の御言葉をわたしたちの胸に刻ませてください。
あらゆる平和を失っている人びとのために、わたしたちもまた、「平和があるように」とキリストの祈りをあわせることができますように。


2023年4月13日木曜日

次回16日・復活後第2主日礼拝のご案内。

次週2023年4月16日(日)は復活後第2主日の礼拝です。

野口和音牧師の説教
「キリストを聞き取る信仰」

と題して、
松本教会は主日礼拝として、
長野教会は信徒礼拝として、
両教会10時半から行われます。


どうぞご自由にお越しください。
なお、礼拝動画は引き続き礼拝後に更新されますので、どうぞそちらもご覧ください。

† † †

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

──ヨハネによる福音書20章19-31節

2023年4月12日水曜日

今週の黙想文(ローマ7:15)

わたしは、自分のしていることが分かりません。
自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。
──ローマの信徒への手紙7章15節


† † †

キリスト者となったパウロは、これまで神の前に自分の正しさを証明してくれていたはずの律法が、今や自分の罪を明らかにするものだと言っています。
キリストが教えたように律法に込められた神様の御心に、パウロ自身は従いたいと思っていても、なかなか自分の心はそれに従ってはくれず、かえって正反対のことを考えるばかりの現実に苦悩しているのです。
神様の愛に生きたくても、それがどれだけ大事なことかわかっていてもそう生きれない、これはすべてのキリスト者が抱える信仰の呻きとも言えるでしょう。
しかしルターもまた小教理問答の中で十戒を罪の自覚のためのものとして取り上げているように、罪を知ることなしにこの苦悩は起こりえないのです。
パウロも「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。(8:1)」続けているように、罪の自覚はキリストの復活によってもたらされた罪の赦しの喜びを私たちに教えてくれるものとなるのです。
イースターおめでとうございます。あなたの罪を赦されるために、キリストは十字架にかかり、そして復活してくださいました。
復活のキリストが共におられるからこそ、私たちは絶えず罪なる自分に立ち向かい、御心に生きようとする道を踏み出すことができるのです。
(20230409週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2023年4月9日日曜日

主の復活(イースター)礼拝【礼拝動画】

本日4月9日は主の復活(イースター)の礼拝でした。

野口和音牧師の説教により、
長野教会は15時から、
松本教会は10時半から、 両教会聖餐礼拝として守られました。



松本教会では前日教会学校こどもイースターが行われ、そこで作られた花の十字架が例年聖壇に飾られます。
毎年綺麗ですが、今年は特にバランスよく綺麗に仕上がったように思います。
両教会で久しぶりにお会いできた方もあり、大変うれしいイースターとなりました。
皆様の日々が復活の主によって新しくされ、支えられますように。

**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※動画は松本教会での礼拝となります。

**本日の使徒書・福音書**

使徒言行録10章34-43節〈新p233〉
コロサイの信徒への手紙3:1-4〈新p371〉
ヨハネによる福音書20章1-18節〈新p209〉


説教「新しい日々に踏み出すあなたへ」

*祈り*

復活の主なる神様。
私たちは主の復活をおぼえ、祝います。
あなたは死に勝利され、病も苦しみもない永遠の命をキリストにお与えになりました。
そして、キリストを信じる者にも約束してくださいました。
それは、いつだってあなたが私たちから目を離すことなく、私たちを日々新たにしてくださるためでした。

あなたは復活し、私たちに呼びかけておられます。
全ての生きたみ言葉を通して、私たちがどのような日々の中にあろうともあなたが共におられることを証ししてくださっています。
今、あなたが私たちと共に生きておられることを、私たちの信仰の基として立たせてください。
あなたの愛と、正義と、慈しみと愛によって、私たちが希望を失うことのないようにしてください。
そして、この世の歩みの全てがあなたの導きの中にあることを信じつつ、私たち自身もあなたの御言葉に聞き従うものとして、送り出してください。

イエス・キリストの復活は、キリストを信じる全ての人々への福音です。
それは、私たちが悲しみや苦しみ、過去の栄光にいつまでも囚われ続けることがないように、そして、目の前にある現実に向き合い、あなたが共におられることを支えとして明日への一歩を踏み出していけるように、あなたが永遠にわたしたちと共にあって背中を押してくださるためでした。
時代は変わり、人はあらゆる技術と知識を手に入れてなお、誰かと一緒にいたいという平安を求め続けています。
それはわたしたちがあなたによって関わりあう存在として造られ、あなたとの関わりなしには、立っていくことができないからです。
御言葉から響くあなたの呼びかけに耳を澄まし、いつでもあなたを探し求めることができる信仰を保ってください。
復活によって成し遂げられた、愛に満ちた永遠の交わりを、どうか私たち一人一人と隣人との間にも満たしてください。
今日ここに集うことができなかった方々のために祈ります。
主よ、今日御言葉に聞く全ての人々のために、あなたは復活されました。それぞれの場所で祈る人々の上に、あなたの祝福が豊かにありますように。
ひとりひとりの信仰のゆえに、今日も生きる主の働きを見出すことができますように。
また、今日病の苦しみの中にある人、明日からの日々の中で不安を抱えている人、言いようのない寂しさと悲しみを抱えている人に、どうか主よ、彼らの名前を呼びだし、必要な癒しと、平安と、慰めを与えてくださいますように。


2023年4月7日金曜日

次回9日・復活祭(イースター)礼拝のご案内。

次週2023年4月9日(日)は復活祭(イースター)の礼拝です。

野口和音牧師の説教
「新しい日々に踏み出すあなたへ」

と題して、
松本教会は10時半から、
長野教会は15時から
両教会聖餐礼拝として行われます。


どうぞご自由にお越しください。
なお、礼拝動画は引き続き礼拝後に更新されますので、どうぞそちらもご覧ください。

† † †

週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。 そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。 それから、この弟子たちは家に帰って行った。 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

──ヨハネによる福音書20章1-18節

2023年4月5日水曜日

次回7日(金)・受苦日の祈りのご案内。

 次週2023年4月7日(金)は受苦日の祈りです。

松本教会では10時半から、
長野教会も同時刻通信礼拝として
キリストの十字架の御苦しみをおぼえ、祈りを合わせる時が持たれます。
どうぞご自由にお越しください。

† † †

こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。
シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。
大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた。イエスは答えられた。「わたしは、世に向かって公然と話した。わたしはいつも、ユダヤ人が皆集まる会堂や神殿の境内で教えた。ひそかに話したことは何もない。なぜ、わたしを尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。その人々がわたしの話したことを知っている。」イエスがこう言われると、そばにいた下役の一人が、「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言って、イエスを平手で打った。イエスは答えられた。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。」アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った。
シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか。」ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。
人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」ピラトは言った。「真理とは何か。」
ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。
そこで、ピラトはイエスを捕らえ、鞭で打たせた。兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせ、そばにやって来ては、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打った。ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。祭司長たちや下役たちは、イエスを見ると、「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ。ピラトは言った。「あなたたちが引き取って、十字架につけるがよい。わたしはこの男に罪を見いだせない。」ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです。」ピラトは、この言葉を聞いてますます恐れ、再び総督官邸の中に入って、「お前はどこから来たのか」とイエスに言った。しかし、イエスは答えようとされなかった。そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」そこで、ピラトはイエスを釈放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石」という場所で、裁判の席に着かせた。それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。
こうして、彼らはイエスを引き取った。イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、/「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。
その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。

──ヨハネ福音書18章1-19章42節

今週の黙想文(2コリ3:2)

わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。
──コリントの信徒への手紙 二 3章2節


† † †

牧師になるためには通っている教会の牧師から推薦状を書いてもらわないと神学校に入学できないと言われ、母教会の熊本教会、通っていた教会の賀茂川教会と、二つの教会からの推薦を頂いて神学校に入学しました。
当時の自分を思い起こすと、推薦状を書くのは大変だっただろうなと思います。
信徒としてはずいぶんと不真面目でしたし、自分中心な考え方で生きていたことを今でも反省しています。
パウロはエルサレム教会や使徒たちからの「権威ある推薦状」を持っていませんでした。
そのことが問題となり、自己推薦しているのではと批判されています。
そのことからパウロはコリントの人々に向けて、あなた方の信仰があなた方自身の推薦状だと述べています。
つまり、誰かから推薦されるものではなく、自分の在り様・生き様が自分自身を推薦するものになるというのです。
四旬節の最後の週、受難週を迎えました。
私たちの罪を全て赦してくださるキリストの十字架を思い起こしつつ、神の前にキリスト者として推薦されるべき歩みが出来ているだろうかと、今一度思い返してみたいと思います。

(20230402週報記載)


……今週の黙想とは……


日曜日だけではなく、平日においても聖書の言葉に触れる機会として用いていただければ幸いです。
引用されているみ言葉だけでなく、聖書を開き、その前後や他の箇所を開いてみましょう。
そして、そこに生きていた人々に思いを馳せ、そこにあなたも生きていて、語りかけられているという気持ちで読んでみましょう。
自分はみ言葉を聞いてどのように感じたかを大切にし、ゆったりと考えてみてください。

あなたの日々がみ言葉によって豊かにされますように。

2023年4月2日日曜日

主の受難主日礼拝【礼拝動画】

本日4月2日は主の受難主日の礼拝でした。

野口和音牧師の説教により、
長野教会は信徒礼拝として、
松本教会は聖餐礼拝として 両教会守られました。

主のご受難を分かち合う中で、裏切ってしまったユダに焦点を当てながらみ言葉に聞きました。
献花してくださった方、ありがとうございました。


**本日の礼拝動画**


(▶️をクリックすると再生されます)
※動画は松本教会での礼拝となります。

**本日の使徒書・福音書**

イザヤ書50章4-9a節〈旧p1145〉
フィリピの信徒への手紙2章5-11節〈新p363〉
マタイによる福音書26章14節-27章56節〈新p52〉


説教「罪深いあなたを生かすために」

*祈り*

私たちの罪のためにキリストを十字架にかけられた主なる神様。
罪深い私たちを、主の十字架において赦してください。
キリストの十字架は、わたしたちの悔い改めに先だって与えられました。
それは、私たちの罪がどれほど深くあろうとも、私たちが悔い改めることができるように、あなたに御前において御心に適った生き方へと自ら踏み出すことができるようになるためでした。
「天の国は近づいた」という御言葉が人々に届けられてから2000年、未だこの世に天の国が来ていないのは、あなたがたった一人でも滅びることを望まない愛に生きておられるからです。
キリストを裏切り、十字架へと引き渡し、また自分の命さえも自ら裁いてしまったユダを、それでもあなたは赦そうとしてくださっていました。
その果てしない赦しにこそ、わたしたちの罪といのちのすべてを委ねて生きることができますように。
日々の悔い改めから私たちの歩み、今日のいのちを始めることができますように。
私たちの日々のうちには、あらゆる悩み苦しみと悲しみが満ちています。
人が人を傷つけることの多い世界の中で、自分が傷つけられないようにという恐れから、国は国に、人は人に、抑止力と称して誰かを傷つける力を蓄えようとしています。
主よ、あなたは神の律法を完成させました。
それは傷つけた者に傷つけられたものと同じ痛手を負わせるのではなく、傷つくこと自体を起こさないための赦しに満ちた教えでした。
キリストが解き明かされたあなたの御心は、罪ある私たちが守るには到底難しすぎるかもしれません。
しかしそれでもあなたはキリストの十字架によって私たちを赦し、御心に適った愛の関わり合いへと、わたしたちを絶えず押し出そうとしてくださっています。
その恵みと導きのゆえに、私たち一人一人から、隣人に対するあらゆる敵意を打ち砕き、平和をもたらすための働きと関わりを担うことができますように。
今日、私たちは私たちの罪を思い起こし、あなたの御前に告白いたします。
わたしたちは誰かを傷つけたことがあります。
誰かをないがしろにし、優劣をつけ、差別し、愛することのできなかった人がいます。
未だに赦せない人がいます。
そのような私たちの罪を赦してください。
そして私たちひとりひとりもまた、誰かを赦せるような人として、新しい命へと生かしてくださいますように。